小川洋子さんの『猫を抱いて象と泳ぐ』を読み終わる。冒頭、デパートの屋上の象、インディラの話で胸がしめつけられ、その感触を残したまま話の中にはいってゆく。『猫を抱いて』は、チェスに「美」を見出し、そしてその「美」のためにすべてを捧げるリトル・アリョーヒンの哀しくも美しい話だった。
彼は、美しいチェスを理解し、チェスで美を創造できる。チェスは単なる勝負事ではなく、チェスは人生であり、美であり、愛であることを知るリトル・アリョーヒンは、弱い相手と対戦するときも、相手の弱さを晒すような勝ち方はせず、美しい棋譜を描いて、相手にとっても心地よい勝ち方をする。リトル・アリョーヒンにとってチェスは、キングを倒しておしまいといった単純なものではなく、彼自身の唯一の居場所であり、存在の理由である。対戦者を打ち負かすことがチェスの目的ではなく、対話をすることが目的なのだ。チェスは、彼にとって他者との唯一の対話手段である。チェスは世界と彼を結ぶ窓なのだ。
体が大きくなることへの恐怖が何度も登場する。象のインディラやマスターのように、大きくなると外へ出られなくなることが、彼は怖い。けれどもインディラにとっての屋上や、マスターにとってのバスは、リトル・アリョーヒンにとってのチェス盤の下と同じだったのではと思う。インディラもマスターも大きくなって出られなかったのではなくて、留まるために大きくなったのかもしれない。リトル・アリョーヒンは、小さいままでいることでそこに留まろうとしたのだ。みな社会からなにがしかの理由で、はみ出てしまっている。そして居場所から切り離されないように、追い出されないように、場所と一体化しようとしているのだ。
(小さい写真2枚:先日元町の古本屋「SHIRASA」で買ったときにくれたオリジナルしおりのウラ・オモテ。薄紫色の模様がきれいで、フォントも品がいいので写真をとってみた。)
孤独なリトル・アリョーヒンがチェス盤に星の煌きや一条の光を見た瞬間や、チェスの駒の動きによって、対戦者の心と対話できたときなど、途中涙を流してしまった。最初のインディラのエピソードからずっと「涙」スイッチはオンになったまま。けれども決して哀しい話ではなくて、本を読んでいる間、ずっと夢を見ているようだった。一篇の美しい詩のような小説。
チェスのことはよく知らない。でも本を読んで、チェスは勝つことが一番大切ではなく(もちろん勝つために腕を磨くことは必要)、一番大切なのは美しいことなのかもしれない。強くて美しいではなく、美しくて強いことがいいように。
以下余談:『博士の愛した数式』は映画化されたが、主役の博士役は私のイメージでは緒方拳だった。寺尾聡はとてもよい俳優さんで、現に私はファンなのだが(中学のときはファンクラブにもはいっていた)、博士のイメージではなかった。個人的には『猫を抱いて』は映画化されないで欲しい。この世界観を映像化するのは、失敗か成功しかないと思うし。
今日の日の出を草屋根の上から撮影する。時間は7時ちょっと前くらい。外気温は氷点下2度。太陽に薄紫色の雲が少しかかっていて美しい。自然だとオレンジと紫の組み合わせも素敵だ。
よい一日を。