ブログの記事数がそろそろ500に近づいてきている。いつのまにこんなに書いたのだろう。過去の記事内容を普段は意識していないのだが、去年の終わりごろに解析ツールをつけたため、どういった検索ワードでアクセスして、どの記事を読んだのかという情報も入手できるようになり、たまにそういうのも見てみる。そうすると、無印良品の洗濯バサミがいいとか、どこそこのお料理が美味しかっただとか、はたまたスタバの店員さんが感じがよかったとか、営業の電話が感じ悪かったとか、ケンが可愛いとか、ドラマがどうのこうのとかを書いた記事がヒットしているのがわかった。改めて読んでみて思ったのは、意外と楽しそう、ということだ。私が書いているはずなのだが、能天気な「誰か」が書いているように感じられる。
ブログに書いていることは、半径数キロくらいの狭い狭いエリア内の出来事を中心に、私の考えたこととか、思い出したこととかといった小さい話ばかりで、たまに豪華客船に乗ったとか嘘でもいいから書いてみたいものである。けれども、毎日が楽しいかどうかっていうのは、主観的な話であって「楽しい」と思えれば「勝ち」かなと思う。昔、『アメリ』という映画を観て思ったのは、幸福というものは日常の小さな幸せを積み重ね続けていける状態じゃないか、ということ。で、楽しく過ごせる人、あるいは幸せになれる人っていうのは、自分だけの小さな幸せなり楽しみなりを見つける能力のある人なんかなと観賞後に感じた。毎日パーティがあるわけでもないし、海外旅行をするわけでもないし、何十億の商談をまとめているわけもないし、人生にはそうそうドラマなんてない。けれども普通の人もそれなりに毎日楽しいってことは、大きなドラマがなくとも人生は十分楽しめる、ということだ。
年齢を重ねて思うことは、ある程度自分の可能性とか、限界がうっすらと見えてくると、それとともに小さな幸せ探しが上手くなってきたなということ。こうやって無意識に精神的にバランスを取ろうとしているのだろう。もう、今さら大企業のCEOになるわけでもないし、歌手になったり、オリンピック選手になったりって可能性も完全に消えているし(というか、最初からそんなオプションはない)、それを望むほど身の程知らずではない。自分の身の丈がわかってきたあたりから、幸せ探しも上達してきたような。でも家族がみな健康で、仕事して勉強してケンが笑って、天気がよくて、ご飯が美味しくて、昨日と同じ今日あってというのが続けば、満足。
(最近は暖かいのでよく庭で遊んでいるケン。移動するときは必ずプーも一緒。プー、ぼろぼろで汚れてきたので、今日あたり洗濯させて欲しい)
追記:ブログの文章から垣間見る私の「ブログ人格」って、わりに客観的にフェアでありたいと思っているけど、それが一貫していないっていうか、ボロが出ているような感じだと思った。好き・嫌いを語りだすと、そういった文章上の化粧(というかメッキ)はすぐにはがれているなぁという印象。修行は続くのだった。
追記その2:楽しみは自分で探すのが基本だと思っているので、「なんかいいことない?」っていうのが口癖の人は苦手である。それを連発している人を見て、私は絶対に言わんぞと心に誓っている。これを1回言うたびに、つまらない人間になっていきそうである。
追記その3:ケンが見ていないときにプーを拉致して、ケンのベッドとか毛布と一緒に洗濯機にほり込んだ。ケンがその後、プーを必死で探していたのを見てちょっと心が痛んだのだった。