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ヒマラヤスギ雑記

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読んでみる。

近所のTさんの奥様と実家の母はよく本を貸し借りしているらしい。実家とTさん宅の距離は歩幅90歩分くらいである。スーパーの袋に入った本が、互いの郵便ポストを往復している。『文藝春秋』は先に購入した方が読み終わったら貸すようにしているらしく、先日実家に行ったら母が、「ね、『文藝春秋』読む?芥川賞の受賞作が出ている最新刊やけど」と言う。Tさんの奥さんから借りたものの又貸しらしい。ま、問題ないらしいので借りることにする。

芥川賞受賞作は田中慎弥と円城塔の二作である。田中氏の『共喰い』から読む。私は最初に予備知識無しで読んでから、選考委員による選評を読むのが好き。なんか、答え合わせみたいな感覚である。で、『共喰い』なのだが、選考委員の黒井千次も言うように小説の中に幸せそうな人は1人も、1匹も登場しないのだ。冒頭に話の主要モチーフとなる(と、私は思った)黒い汚れた川の描写がある。破れて骨だけになって水面から顔をだしている傘や、取手のプラスティックの毒々しい色だけが目に付くバケツとかが、頭の中に映像として浮かび上がる。ものすごく暗くて、そのうち臭いそうな川の描写だった。

この川の印象のまま話は展開してゆく。どんどん小説の世界に嵌ってゆく。幸せ、とはとてもいえない女性が4人登場するのだが、妙な逞しさを感じる。不幸せが底を打った後に身についていく逞しさ、といった感じなのだ。男性2名はただただどうしようもない。どうするのかなぁ、この人達って思ってしまった。主人公、これから変るのかなぁと。『文藝春秋』に掲載されていなかったら、読まないかもしれないけれども、わりに一気に読めた。作家の田中氏がインタビューで「ネガティブなもの、日常の裏に隠れているようで、実は現実にもありうることを書いているだけ」と答えていたのに、納得した。どんな人にもどこかにこういった川は流れているのだと思う。認めたくはないけれども、私にも流れている。胃の後ろの辺りにたまに存在を感知する。

小さなことだけれども、小説中に鍋を借りて返すときにいつも鍋になにかおかずを入れて返すことに対して、気を使わなくて言いと毎回伝言し、そしてまたおかずの入った鍋が返ってくるというエピソードがあって、「こういうの、あるある」とクスリとした。このくだりって、田中氏の日常でもあったのかなぁと思う。そして、私はその箇所を読んでお正月に、義理の母に黒豆をつめてもらったタッパーを返さないといけないのだけど、空で返してもいいかなぁと、小説を読みながらそういう余計なことを考えてしまう。

円城氏の『道化師の蝶』は、これは正直に言うと読みかけて止まっている。日を改めて読めたら読もうという感じである。私には難解で、読書の楽しみとは違うところにある小説かも。理解のための小説というカテゴリーなのかな。小説の世界に入れなくて、イメージが視覚化できなくて、正直足踏みしている。ただ、なんとか理解したいから余裕のあるときに読もうという想いはあるけど(これってほとんど文献講読だ、読書でない)。後日感想を書けたら書くということで。書けないかも。

*寒い、寒い。日が差さないとなんと気分が滅入ることか。2月はほんとつまらない。ちょこちょこ用事をいれて、内に篭らないように気をつけている。あと、風邪にも気をつけている。やっぱり春を前にいろいろある。そういう季節である。
by himarayasugi2 | 2012-02-16 08:27 | 本など | Comments(0)
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