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ヒマラヤスギ雑記

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ローガン

最近メガネを作るために、眼科で視力測定をしてもらってメガネ処方箋を書いてもらった。メガネが出来上がったら持ってくるように言われて先日持っていったときのこと。眼科の待合にいる患者の年齢層は、下は幼稚園から上は果てしなく上と、かなりばらついている。中待合のコーナーで待っていたとき、メガネのためのレンズあわせをしている高齢の女性が隣に座っていた。そこの眼科は(というか眼科はここしか知らない)、とても丁寧にレンズあわせを行う。最初に、ある度数のレンズを入れてみて、小さな文字のグラビア雑誌や新聞を渡され10分ほど読む。そしてどうだったかと訊かれる。そういうことを何度か繰り返して最適の度数のレンズへと絞り込んでいくのだ。私は2度ほどレンズ調整を受けて、雑誌を読み、院内を普通の速度で歩いたりするように指示を受けた。右と左で異なる見え方の人もいるだろうから、そういう人はもっと時間をかけるのだと思う。

隣に座っていた高齢の女性も、レンズ調整の最中だった。スタッフ(おそらく資格があってそういう資格士の名前で呼ぶべきなんだろうけど、知らなくて)が、女性のためにレンズを選び、新聞を渡す。「これを10分ほど読んで見え方を教えてくださいね、今から時間計りますから」と説明する。メガネをかけて新聞を読むや否や、「ああ、こういうことがあったの」とか「久しぶりだわ」とかつぶやいている。10分たってスタッフが戻ってきた。女性はよく見えると感心してスタッフに伝える。「今までのメガネはそんなに見えなかったのですか」とスタッフが声をかける。「新聞とかテレビとかはどうやって見ていましたか」というスタッフの質問に対して、「新聞もテレビも長いこと見ていませんでした」と返事がかえってきた。

どこかで読んだけれど、情報の8割は目を経由しているらしい。視覚はとても重要な感覚である。にもかかわらず、視覚は(視力という観点から見ると)最も人によってばらつきがあり、また、老化とともに機能低下が進む感覚でもあるのだ。触覚や嗅覚や味覚などの加齢を原因とする機能低下のレベルは、視覚とくらべると小さいのではないだろうか。また視覚は視力という機能だけでなく、リテラシーをより必要とする感覚なのだ。知識もまた視覚を支える要素だと思っている。それだけ視覚は五感の中では理性に近いところにある感覚だと思う。眼の機能的性能(視力や視野)は、どうしたって加齢で低下する。でも視覚のリテラシーは機能的性能と同じ劣化軌跡をたどらない。同じ風景も、同じドラマも、同じ絵画も、何かを知っているということで違うように見えているのではないかと思う。その意味では若いころと今では同じものも違って見えるのだろう。やっぱり目からのインプットは維持していかなくてはと、しみじみ思う。なんだかわかったような、わからんようなことを書いたか。

あのときの高齢の女性は、メガネをかけたらあまりにも字がよく読めると感激していた。眼鏡を作って新聞やテレビを再び見るのかなと思う。昨日ゼミがあって、メガネを初めて学校でかけた。照明を落とした手元でもレジュメが読みやすくて、ほんとに今までどれだけ見辛かったんだろうか。去年の自分があまりに不憫でならない(大袈裟)。字が読みやすいってことがこんなに快適なのだと実感するたびに、「老眼」の「老」の字をいやでも意識するけど。老眼って呼ぶのやめてー。



つけたし:私はずっと裸眼で視力がよかったので、今から遠視も進むと予想されている。ひぇーん。
by himarayasugi2 | 2012-04-20 08:15 | 雑感 | Comments(0)
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