*人によっては気持ち悪いかもしれません。ちょっと涼しくなる話だと思います。
90年代の終わりごろ、荻窪のマンションに住んでいたときのある日の話。荻窪のマンションは、北と東に窓があるのだが、北側は青梅街道に面していて埃っぽくてうるさく、東側は手を伸ばせば隣のマンションの外壁に触れそうな間隔で建物が密集していた。朝も電気をつけないと暗く、風通しも悪く、バルコニーに干したところで洗濯物も乾かない。洗濯物をうっかりと取り忘れると、白いシャツだったら肉眼でもはっきりとわかるくらい黒い粉塵が繊維の間についているのだ。ぱりっと洗濯物が乾くというのは荻窪時代の憧れだった。その日、夫は出張で不在だった。私は仕事の後に飲み会があって午後11時すぎにマンションに戻った。
部屋の鍵をあけて入り、電気をつける。いつもと変らない部屋である。そのときの服装は、確かワンピーススーツで、半袖のワンピースにジャケットを羽織っていたと思う。ストッキングを脱いで脱衣籠に入れようと洗面所のドアを開けて一歩入る。洗面所は入ってすぐのところに電気のスイッチがある。だから入ったときは一瞬だけ暗闇なのだ。が、そのとき「あれ、なんかおかしいぞ」と感じる。暗闇で顔にふわーっと何か、薄い布のようなものがかかった気がしたのだ。気のせいではない。すぐに電気をつける。ふわふわしたものの正体は室内が明るくなってもすぐにはわからなかった。数秒後、洗面所内で何が起こっているのかが判明する。それは想像を絶する事態だった。
顔にかかったふわふわを取ろうと手で髪や顔の周りを払うと、掌に何かがついているのに気づく。消しゴムのカスほどの大きさの緑色の「モノ」がいくつかついている。なんだろうと思ってよく見てみると、その緑色のものは小さな芋虫で、尺取虫みたいな動きをしながら掌を這っているのだ。「!」ジャケットの腕を見ると、やはり何匹も芋虫たちが行進している。ふと天井の方を見上げると、洗面台の鏡の上部に作りつけてあるリネン庫から緑色の芋虫たちが糸を吐きながら降りてきているのだ。室内を見渡すと、リネン庫を中心に部屋中に糸を吐きながらうごめく芋虫だらけだったのだ。恐怖のあまり全身に鳥肌が立つ。私は芋虫と芋虫の吐く糸の塊の中に突っ込んだということを理解する。
本当は、発狂しそうで、大声で叫びたいくらいだった。でも、本当に恐怖を感じたときは、意外と声が出ないということである。おそらく髪の中も顔も芋虫だらけで、リネン庫に芋虫が湧いているだろうということがわかった。とにかく冷静にならなくては。大急ぎでゴミ袋を出してきて、まずリネン庫にあるタオル全部をゴミ袋にいれる。外にタオルを干している間に蛾が卵を生んでいて、それに気づかずに取り入れたものが孵化したのだ。どのタオルかなんて調べる暇はない、とにかくタオル全部をゴミ袋にいれて、ぎゅっと封をする。それから、肉眼でわかる芋虫全てを雑巾でふき取り、掃除機をかける。念のためリネン庫内部には殺虫剤をまいておく(翌日水で拭く)。最後に着ていたものを全て脱いでスーツはゴミ袋へ、下着は洗濯機へほうりこむ。で、私はお風呂に入って念入りに髪と体を洗った。お風呂を出たら、午前2時半になっていた。
タオルは天気のよい日に洗濯し、1枚1枚、芋虫がいないことを確認しながら取り込んだ。スーツは翌日クリーニングへ。しばらく洗面所に入るのが本当に怖かった。心底このマンションから出て行きたいとも思った。それに、どうして夫がいないときに限って、ゴキブリだの芋虫だのと室内で遭遇するのだろう。それも腹立たしい。
私には霊感などは全くないかわりに、こういうアクシデントが多いと思う。夜道を猪と1対1で向いあったとか、旅先で大きすぎるゴキブリと1人で戦うとか。そして洗面所の芋虫である。室内でどんな小さな虫でも大騒ぎして徹底的に排除するのはこの芋虫事件の記憶も関係している。今でも蟲の塊を見ると、この芋虫事件を思い出してしまう。
日曜にカイガラムシを退治していて思い出した、私の恐怖体験。