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ヒマラヤスギ雑記

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やっと読めた/藤山直美

近所のTさんの奥さんが貸してくださった芥川賞受賞作品が掲載されている『文芸春秋』の、当該作品をやっと昨日読了した。やらなきゃいけないことがひと段落してから読もうと思っていたのだ。で、読んだのは柴崎友香の「春の庭」である。

奇をてらったところもなく、淡々とアパートの住人とその近所の洋館の日常が描かれている。特に事件もなく(あ、まぁ、あるといえばある)、物語は終わるのだけど、好きか嫌いかといえば、好きな方だとは思うのだけど、魅力的かそうでないかといえば、私にはあまり魅力的ではなかったかも。芥川賞選評によると、今回はかなり票が割れたようで、選考委員全員がこの作品を高く評価した上での受賞という感じではなさそう。私はこの作品は、なにが主題なのか感じることができなかった。表向きの作品主題ではなく、その下にある作家が通底させているテーマ、のようなもの、という意味なのだが、この作品ではそれは、なんだったのか。

選考委員の島田雅彦のコメントの一部:
「あるシーンが後に何かの伏線になるのかと思いきや、途中で掘り出されたりもする。だが、現実の出来事は誰かの関心を惹こうとか、物語としての説得力を高めようという意図など全く入り込む余地がない。柴崎友香はそうした「ぶっきらぼう」な現実の前で謙虚でいることを選ぶ」(『文芸春秋』2014-9 367頁)

ああ、わかるなぁと思った。島田雅彦は、それを理由に評価している。私は、ここまで「何もおこらない現実」でなくてもいいかな、フィクションなのにとも思う。私は作品の向こうにあるテーマがある程度見やすい方が好き。もっと柴崎友香の作品を読めば見えてくるのかもしれない。初めて読んだ柴崎作品なので。

それから村上龍のコメントにちょっと共感。
「『春の庭』には、冒頭に、“「(これを右に90度回す)”のような「はじめカギ括弧」に似た「記号」のようなものが文中で示される」と村上は指摘しているのだけど、それについて、村上は、作家にとって唯一の武器である描写を駆使しないでこういう記号で済ませること対して批判的だった。この記号は、アパートを上から見たらこういう形であると説明するときに出て来たのだけど、私もここを読んだとき、なぜ文章でなく、記号で済ますのだろうと思ったから。なぜ記号である必要があるのかが伝わらなかった。

藤山直美:
週末にテレビドラマ『最強の女』を視聴した。主演は藤山直美。もうね、すごくこの人は上手。上手というよりも、脚本上の人物に命を与えるような素晴らしい演技に目が釘付けだった。演じているというのではなくて、彼女の動きに合わせて脚本がついていくようにすら見える。ただ、彼女だけが上手というのではなく、寺島しのぶ、子役の子、岸部一徳も藤山直美の演技によい意味で引きずられてとてもよかった。藤山直美だけが上手なドラマでなくて、ドラマ全体でよい作品だった。藤山直美はおそらくノーメーク。笑いながら泣く場面が後半あるのだが、まるでお父さんの藤山寛美のよう。ここまで本気の演技をされたら、共演者だって「よし、私もやるぞ」となるんじゃないかな。プラスの相乗効果みたいな。いつも途中で寝てしまう夫も、ずっと見ていたし。上手な子役の女の子、これは芦田愛菜の強力なライバルになると思う。めちゃくちゃ上手い。それに個性がある。
by himarayasugi2 | 2014-10-07 09:22 | 本など | Comments(0)
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