ブログトップ

ヒマラヤスギ雑記

cedar2.exblog.jp

カテゴリ:実家( 10 )

100日

昨日は、父の納骨だった。納骨されるお墓は、20年くらい前に、父と母が場所を気に入って購入したものである。父は三兄弟の一番上なのだが、子供が私と妹、と女ばかりということもあって、父方のお墓の管理は父の弟がすることになったのだ。

お墓は家から海と山を見ながら閑静な住宅街をのんびり歩いて30-40分くらい、車だとあっという間につく丘にある。ご近所の方が、お墓が売りに出されていることを教えてくださり、父と母は見に行ったのだ。で、父と母が購入したお墓の一つおいた隣に、ご近所さんのお墓もある。母は、納骨の前にご近所の奥様と誘い合ってお墓の掃除にも行っていた。ウォーキングも兼ねて気軽に行ける感じを母も気に入っている。

石材屋さんが、丁寧に段取りをしていただいたおかげで、納骨は滞りなく終わった。父の兄弟達と母と妹と私と夫で、こぢんまりと行った。

父が眠るお墓の真上の景色。
c0221299_10574554.jpg
(夏の強烈な太陽も少しはしのげるかな。台風直後は、枝とかすごかったと母が言っていた。)

そして、父のお墓の正面に見える景色。
c0221299_1059541.jpg
(母は何度も、「この場所いいでしょう」と話していた。)

こんな丘にある。近くにハイキングコースがあって、トレッキングのいでたちの人も見かけた。
c0221299_1102151.jpg


納骨の後少し休憩して、夜ごはんを食べに行った。美味しかった。コースの一部を少し。
c0221299_1105212.jpg
(土鍋で炊いたご飯がすごく美味しかった。おこげ最高だ。三連休ということもあって、お店は満席だった。)
c0221299_1114850.jpg
(朴葉味噌、ご飯に少し載せていただいたら、美味だった。)
c0221299_1133077.jpg
(デザート。お茶は、4種類の中から選べて、お代わりのお湯ももらえる。栗の渋皮の入った羊羹に柿。)

死後100日を経った日は、卒哭忌というらしい。納骨は、ほぼ卒哭忌に行ったことになる(丁度100日後じゃなくて、100日+数日後、だけど)。卒哭忌とはいつまでも死を嘆き悲しまず、遺族はそろそろ非日常から日常へと気持ちを切り替え、前を向いていく時期らしい。

以下引用:
百カ日は、またの名を「卒哭忌そっこくき」といいます。卒業の“卒”とありますが、これは小学校や中学校の課程を終了するという意味があります。また、“哭”は慟哭という言葉がありますが、泣くことです。ですから、「卒哭忌」とは、故人の死を泣き悲しむのを終える日なのです。また、仏とのご縁を結ぶことで、自分自身の考え方や生き方を見直し、よりよい生き方を目指していく機会でもあるのです。
(ソース:http://www2.spacelan.ne.jp/~t-kawabata/newpage333.html)


父が亡くなって100日も経ったことに気がつかなかった。あっという間だ。
そういう区切りのタイミングで、納骨ができてよかったと思う。近いから、時間を見ては父に会いに行こうと思う。

昨夜は、喪中葉書の用意もする。








[PR]
by himarayasugi2 | 2017-11-05 11:06 | 実家 | Comments(0)

よくある休みの日

月曜日、少し外出した。

中高大友のNのご主人とそのお友達が毎年開催されるグループ展を覗く。G会で行けなかった年が一度あったくらいで、ほぼ毎年見に行っている。このグループ展は、もう10年はされていると思う。毎年多彩なメンバーが参加される。Nのご主人は、秋の草花の投げ入れの大きな生け花作品を出展されている。奇をてらったものではなくて、いつも品があってさりげないお花を見せてくださる。

その後、ランチを食べ、必要な買い物のために移動。

必要な買い物を終えて、やや不必要な買い物もしたくなって(ようするに無駄遣いなんだけど)、GUを覗く。GUはユニクロよりもさらに安い。夫は靴下をまとめ買いし、私は下着とパジャマ代わりの長袖Tシャツを買う。実は、GUで買い物をするのは初めて。レジへ行ってびっくりである。完全セルフレジなのだ。店員さんに使い方を教えてもらう。

ハンガーを外し、駅のコインロッカーみたいな箱にいれて、蓋を閉めて、その上にあるモニターのタッチパネルを押したら、一瞬で箱の中に放り込んだ(かなり適当に入れている)衣類の値段を読み込んで合計金額を表示してくれる。で、あとは駅で切符買うみたいな感じでお金を入れて、おつりを受け取って、後ろのパッキングコーナーで、もらった袋に買った服を詰め込んで終了。うわー、面白い。すごいかも。人が一点、一点、バーコードを読み込むよりもずっと短時間でレジが終わる。夫と、「すごいすごいすごい」と感動していたのだけど、隣のボックスでセルフレジをしていた若いカップルなんて、手慣れた感じだった。

帰宅後、隣の実家に行く。父の服がまだまだあるので、夫と残りを見に行ったのだ。父が使用していたクローゼットをあけて、亡くなる直前までよく着ていた上着などから見せてもらう。と、上着のポケットから小銭の音が。クリーニングに出していなかったものは、すべて小銭がポケットにあるみたい。父はとにかく家のありとあらゆるところに小銭を置きっぱなしにしていて(ポケットはもちろんのこと、無造作に封筒とか、本の間とか、ポーチとか、箱とか、引き出しの中とか、バッグのポケットとかとかとか)、今までで母が片付けただけでも、かなりの金額になっている。夫によると、男性はおつりとかを財布にしまうのが面倒で、ポケットに直接入れる人が多いらしい。夫は、なくしそうだから絶対にしないらしい。昨日は4-5着のポケットから小銭を回収する。合計で8000円くらいだった。母に渡すと、「きっとまだまだあるわー、お父さんのものは、なんでも捨てる前に中を全部確認しないと」とややうんざりしていた。でもまぁ、後から借金があったっていうよりも、ずっといいと思うけど。

父の癖がなんとなくわかった。上着の右ポケットには小銭類をいれて、左ポケットにはマスクとティッシュケースを入れていた。で、胸ポケットには、未使用の爪楊枝が2-3セットいれている。見事にどの上着もその法則どおりだった。そんなこと生前は全く知らなかった。母によると、スラックスの尻ポケットも要注意小銭スポットらしい。残りの上着は、まず右ポケットから調べればよいのだ。







[PR]
by himarayasugi2 | 2017-09-19 11:47 | 実家 | Comments(0)

病院選び

母の胸椎圧迫骨折の経過は順調で、もう普通に室内で家事をこなせている。来月以降は、軽いトレッキングならOKらしい。しばらくは月に1度、病院で診てもらう。

実は、母の圧迫骨折は、最初に行った病院では正しく診断されていなかった。父の介護の最中ということもあり、母は家から一番近いA整形外科に行ったのだが、そこでは「ただの腰痛」ということで、注射を1本打って、ロキソニンと湿布を処方されただけだった。が、注射も全く効かず、ベッドから起き上がれないほどの痛みは24時間たっても引かない。おかしいと思って、Tおじさんが以前椎間板ヘルニアの手術を受けた先生がされているB整形外科に夫が車で連れて行ってくれたところ、胸椎圧迫骨折と診断されたのだ。すぐにコルセット用に採寸して、コルセットを発注し、必要な処置と必要な薬剤が処方された。

A整形外科では、レントゲンを1枚撮影しただけだった。しかし、B整形外科ではもっと(3枚以上だったような記憶)撮影した。B整形外科で撮影した画像には、はっきりと骨折箇所が写っていた。私もそれは確認した。このままA整形外科に通っていたら、母の腰の痛みはいつまでも続き、骨がつぶれて背中も丸くなり、身長もかなり縮んでしまうところだった。歩けなくなる可能性だってあった。A整形外科では、私が昔四十肩でかかったのだが、一月たっても全くよくならなかったので、ちょっと通うのに不便だったけど、C整形外科で、きっちりリハビリを受けて治したという「前科」があった。最初から母をB整形外科に連れて行けばよかった。A整形外科は、近所の美容院で噂されている「あぶない病院リスト」に上がっている病院だったのに。正しい診断を下せない病院に行くのは、お金と時間の無駄である。

B整形外科は、最近開院した病院で、神戸市内に展開している系列病院がいくつかある。広い待合室、最新の設備、診察室も多くあり、先生やスタッフも多い。リハビリのコーナーも充実しているし、駅からアクセスがよい。手術が必要になれば、系列の入院設備のある病院に紹介してもらえるという。Tおじさんは、そこで手術を受けた。

最近は、B整形外科の評判がよく、周辺の住民はみんなそっちに行っているらしい。母は、美容院で早速A整形外科の話をしたので、これでA整形外科の「あぶない病院リスト」上での地位は確固たるものになった。美容院の顧客は、誰もここに通わなくなるだろう。このリストにあるA整形外科とA内科については、ほんとにあぶない病院だということは、経験から断言できる。

ご近所のTさんは、内科のホームドクターを、循環器系と消化器系とでそれぞれ決めている。母も私もそうしようかなと考えている。

病院の評判については、あまりネットはあてにならないと思う。ためしにA整形外科の名前で検索したら、よい口コミばかりがヒットするのだ。しかも、その口コミは定期的に集中して書かれている。2日連続で4件の絶賛口コミが、同じような文体で書きこまれるなんて、奇妙である。おそらく「サクラ」の口コミだと思う。なので、参考にならない。



昨夜から風が強くなってきている。今は晴れているけれど、こちらも午後から暴風雨になるらしい。そんな気配は今ないけど。ケンは朝の6時前に夫に連れられて朝散歩に行った。草屋根の様子を見に上がったら、根元から折れているコスモスを発見した。終わりかけとはいえ花が咲いているので、折れた茎ごと撤去して、花の部分を生ける。
c0221299_9523011.jpg
(草屋根のコスモスに沢山蕾がついている。ピンクと紫ばかりで白がないのよねぇ。画像は、昨夜の風でなぎ倒されていたコスモス。)











[PR]
by himarayasugi2 | 2017-09-17 09:56 | 実家 | Comments(0)

片付けについて考えたこととかのメモ

父が亡くなってから、隣の実家に訪問することが増えている。心身両面で疲れ切っている母がなにかと心配なので。まだ圧迫骨折が完治していない母に代わって高いところの物を取り出したり、片づけたりといった作業なども手伝っている。

実家の荷物の多さに圧倒されている。少しずつでも整理しておかないと、片づけに年単位かかりそうな気がする。以下、実家の片付けについて考えていることのメモ。

本:
両親はそろって本が大好きで、読書家である。特に、父は自他ともに認める活字中毒である。父と母が好む本のジャンルは全く重ならないために、実家の蔵書数はすごいことになっている。父は、未読の本が手元にないと不安になる性分だったのか、膨大な数の「未読本=買ったばかりの本」が残されている。読み終わった本だって、膨大だ。父の蔵書は、もう全部売ってしまうしかないだろう。父の蔵書を売却しただけでも、かなり家はすっきりすると思う。我が家は、年末に本を売っている。まめにやるしかないのだ。

服:
父は衣裳持ちだった。服も靴もすごい数がある。幸いに靴のサイズは夫と父は同じである。幅広足というところまで一緒で、ほとんどの靴が「ピッタリサイズ」なのだ。なので、夫は履けそうな靴を何足かもらった。服も、何着かもらう。残りの靴と服は、東京の従弟が「捨てる前に見に行くから欲しい」と連絡してきたので、持っていってもらう予定。下着やパジャマ、使用済みの靴下などは、処分するしかないだろう。母は、着るものについては、合理的な考え方で、あれこれ持とうとしないのだが、祖母からもらった着物やら洋服やらを着ないというのに処分することができない。なので、クローゼットやタンスは、祖母が遺した「誰も着ない」服と着物で占められている。この状態もよくないなーと思う。中を空けることで、そういった収納家具が3-4個は処分できそう。

食器:
もう母の1人暮らしだというのに、食器の数だけは大家族仕様である。祖母から受け継いだ骨董の数も多い。祖母は亡くなる1週間前に「私の集めた骨董は、好きなものを取っていってもいい。高価なものでもどんどん毎日使ってちょうだい、でも、私の骨董を古美術商に売るのだけはやめてちょうだい。もし、あまり好きでなくなったらそのときは、それを大事にしてくれる人にお譲りしてちょうだい」とはっきりと私に言ったのだ。要は、大事に集めた骨董で、お金を得ることはやめて欲しいということだ。これは祖母の遺言だと思っている。なので、売ることはできない。祖母の骨董は、母と東京の叔母で引き取られ、妹と私は少しだけその中からもらっている。実家には、骨董以外のお皿も多く、これも真剣に考えないといけないと思う。出番が1年以上なかったお皿は処分対象になると思う。

我が家のモノ量は、そこまで多くはない。でも、服も食器ももっと減らせると思う。引き出物でいただいた食器は、いくらよいものであっても趣味が合わないと全く使わない。場所だけとっている。食器は、気に入ったものだけにして、お客さん用のグラスとか、お椀とか、そういうのも最小限にしたいなぁと思っている。とりあえず夫には、お酒を買ったときにおまけでついてくるグラスやお皿だけは、絶対にもらってくるなと通達しておいた。今のところ、最も出番が多いのは、直径20センチの信楽焼のお皿。洋風も和風もOKで使いやすい。こういう大定番を見極めて、「食器1軍」を編成したいと思っている。2軍は必要最小にして。でも、1軍用に食器を増やしたいという誘惑が……。








[PR]
by himarayasugi2 | 2017-09-11 10:11 | 実家 | Comments(0)

忘れない夏

今年の夏は、忘れられない夏になった。父が倒れて寝たきりになる。家で父を介護していた母が圧迫骨折になる。父を入院させる。父が入院4日目に亡くなる。そして告別式、その後の手続き、母の骨折治療、などなどの出来事が、セミの声をBGMに飛ぶように過ぎて行った。ずっと暑かった。個人的には、暑い日の朝に、動けない母に代わって父を入院させた日が、ここ数年ないくらい慌ただしかった。朝一番に入院先が決まり、訪問看護師さんと一緒に20分で入院の用意をし(看護師さんが、テキパキと指示してくださって本当に助かった)、10分で身支度をして、父と一緒に救急車に乗って病院に行った。あのとき母は、まだ骨折が痛くて家の中をゆっくりしか動けなかった。母には家で待っていてもらった。

ごった返す病院で、手続きのために何枚もの書類を書き、父の検査を待ち、病室を整え、主治医と画像を見ながら話す。その間、病室で待つ父の話し相手は、Tおばさんがずっとしていてくれた。本当にありがたかった。夫はこの日、急遽休みを取ってくれた。夫は車で病院に先回りして待っていてくれた。

救急車に乗ったのも初めてなら、入院手続きをしたのも初めてで、別室でCT画像を見ながら主治医と面談だなんて、ドラマの中でしか見たことのない風景だった。どこか現実感がなく、ちゃんと話はしていたのだが、遠くで聴いているようなそんな感じだった。

午後に一端病院を後にし、夫と昼食を取り、ユニクロに行って母が骨折を治療中の間に着用する服を買った。胸椎の骨折なので、骨が完全にくっつくまでコルセットをつけるのだが、その際にウエストは全部ゴムのパンツの着用が望ましいと医師に言われたのだ。で、買い物を済ませ実家に戻り、母を車に乗せて整形外科に行く。整形外科でコルセットを受け取り、それを装着してから、母も一緒に車で父が入院した病院へ戻る。病院でしばらく過ごしたあと、買い物をすませ、実家に戻ってぼんやりしていた。入院前日は、一睡もできなかった。

ずっと暑くて、セミがうるさかった。妹は中東に出張中だった。帰国するまでは知らせないでおこうとなっていた。帰国のタイミングとなったときに、メールで父の入院と母の骨折のことを伝えたら、すぐさまメールで、私のメールを読み朝の中東のホテルのベッドの中で「絶叫した」と返信があった。そうだろうな。私だってこういう展開になるとは思わなかった。

父は、入院4日目に亡くなった。病院が嫌いで入院したくないと言い続けていた父なので、悲しいけど入院生活が長引かなかったことは、よかったのかもしれない。

私はもっとしっかりしなくてはいけないなと思った。もう大人すぎるほど大人なのに、入院手続きする間も、救急車が家の前に停まったときも、想定外にてんぱっていた。救急車内では、みなさん話しかけてくれたり、ずっと優しくしてくださって、ありがたかった。救急車って、ほんとに信号でとまったりしないんだなとあらためて思ったり。

毎年セミの声をきくと、この日のことをきっと思い出してしまうだろう。

夏に撮った画像をあげようかなと思ったのだけど、それは後日どこかで。

今年の夏も、ケンは冷え冷えマフラーを巻いていた。 
c0221299_11463926.jpg
(ケンが留守番中に階段でつまずいたりしないように、1階と2階の行き来をときどき背後に見えるゲートで制限している)


母の圧迫骨折の経過は順調で、骨はちゃんとくっついてくれた。コルセットはもう外している。まだ重いものは持ってはいけないのだが、それ以外の家事などは普通にできるようになった。ウォーキングも推奨されている。








[PR]
by himarayasugi2 | 2017-09-05 11:51 | 実家 | Comments(2)

その後の母 75歳のスマホデビュー

父名義の携帯とインターネット契約を解約するときに、母の携帯をどうするかとなった。父はガラケー使いで、友人との通話もメールもガラケーからだった。パソコンでインターネットもできたが、あまり使っていなかったようである。だから実家にネットは引かないことに決める。母は、家族割引でガラケーを安く持てたので、それをずっと使っていた。といっても、メールは一切せずに、通話のみである。父が亡くなり、母だけとなると家族割も使えない。携帯契約は、家族だと割安だけれども、個人で契約すると高いということを知る。

母の72歳の妹(東京の叔母)も、母の弟の配偶者(アラセブン、Tおばさん)も、ご近所の仲良しTさんの奥様も、みなスマホを使っている。Tさんの奥様(78歳くらい)は、海外にいるお嬢さんとは、頻繁にスカイプで会話されるし、なんでもさくっとネットで検索したり、ネットで予約したりと、パソコンもスマホも使いこなしている。母が毎日のように長電話をするMさん(母の同級生@75歳)は、携帯こそガラケーながら、パソコンで買い物はするし、メールを打つのも早い。こうしてみると、メールもやっていない母だけちょっと出遅れているように見える。

ネットを解約したことを考えて、母にスマホを持ってもらおうとなる。ガラケーでもスマホでも母1人で契約する分には、月々のお金はほぼ同額ということも後押しした。格安スマホは、今まで携帯メールも使ったことがない母には、ハードルが高いかなぁとなり、普通にらくらくスマホになった。色は赤(白とか黒だとエアコンやテレビのリモコンと間違いそうだし、赤だと探しやすいしいいと思う)。あとで、格安スマホでもらくらくスマホみたいなのがあることが判明したが、ま、いいでしょ。

とりあえず、母にはラインとメール(キャリアからもらうアドレスに加えてGメールアカウントも作った)と通話の方法を指導し、画像の保存の仕方、スタンプの送り方、アルバムに画像を保存する方法などなども指導する。といっても、何度も同じこと訊いてくるし、親切すぎるほど親切なマニュアル(お年寄り向けだからわかりやすい)も「何が書いてあるのかわからない」と全く手に取らない。なので、こちらからラインしたり、メールを送ったりと、とにかく使え、使うんだ!攻撃をし続ける。練習あるのみなのだ。海外のお嬢さんのところに遊びに行っているTさんの奥さんからラインが届き、母は「海外からラインがきた」と驚いたり。でも、少しずつ便利なことがわかってくるようになる。

でもやっぱり、グーグル検索の方法やラインのスタンプの送り方は3度も訊かれるし(3度めには、「メモに書いて」と指示)、動作一つ一つが自信なさそう。慣れるしかない。あと、母は最初の5分間は通話無料プランにしているのだが、私の自宅の固定電話にちょっとしたことで電話するのに、スマホからかけてこない。理由を訊くと、固定電話にかけるときは、固定電話からでないとだめだと思っていたという。独特の思い込みを発動するのだ。母、75歳、らくらくスマホマスター(?)への道は険しい。

私は、去年の7月1日からスマホを使っている。母の様子を見ていると、こういう文明の利器は、使わないのなら使わない、でも、使うのなら早めに使わないと慣れるのに時間がかかるというのがよくわかる。という私も、通話とラインとメールとカメラ、それと手持無沙汰のときの暇つぶしにニュースを見るくらいしか使ってない。画面が小さいから、ネット検索とかやる気も起らないし。

こういうメカに弱い母に、今更スマホを持ってもらうのはどうかな、ガラケーでもいいかな、と最初は思ったのだけど、母の周囲の友人がみなメールやラインを使いこなしていることを考えたら、持つことで友人とコミュニケーションを頻繁に取れるかなとも思ったのだ。わざわざ電話するほどでもない用件とかを気軽にラインしたりね。父がいなくなって、1人家にいる母にとってスマホで友達と連絡をとることの意味は大きいと思うし。私は隣に住んでいるけど、やっぱり母は、母の友人と過ごすほうが楽しいだろう。そういう友人とのお付き合いのお供にいいかなと。

母のスマホとの格闘の日々については、また記録予定。










[PR]
by himarayasugi2 | 2017-08-31 18:47 | 実家 | Comments(0)

父について 4 エンディングノート

父の死後、父名義で契約していたものの解約などを中心に、実家にかかる費用をシンプルにわかりやすく、見直すことになった。妹が8月滞在中に中心になって手続きをやってくれた。と、書くと2行くらいで終わるのだが、実際はわりと大変だった。

最近、エンディングノートのことはよく見聞きする。父が生前最後に参加した学生時代の友人らが集うゴルフコンペの参加賞は、エンディングノートとボールペンだった。同じゴルフコンペに参加した父の友人のAさんは、几帳面な方で、突然亡くなっても家族が困らないようにとエンディングノートに、クレジットカード、銀行、証券、通帳、印鑑、パスワードなどなどの情報を、参加賞でもらったエンディングノートにきっちりと書かれたという(Aさんは、ご健在)。しかし、父はコンペの参加賞のエンディングノートには何も書かなかった。開いてもなかったかもしれない。そういうのが嫌いだったのだろう。

だから、父が何の会員で、何を契約していて、どういったものが引き落とされて、引き落とし口座はどこやねん、その印鑑はどれやねん、他に口座はあるんかい、パスワードはなんですか?みたいな情報は、父が亡くなった時点で、わからないことが多かった。母、妹、私、夫の4人で手分けして、手がかりとなる書類(領収証とか引き落とし通知とか)を探すことになった。

父の机の引き出しやら、キャビネット、ファイルボックスの中のものを全て出し、みんなであれやこれやとそれらしい書類を探したのだった。その間に、新品のポチ袋が、ポチ袋屋さんができるほど発掘されたり、小銭があらゆるところから出てきたり、時計やらメガネやら付箋やらが沢山出てきた。手帳が何冊も出てきたので見ると日記だったりする。そういったものは全て母に渡した。父がいろいろな美術展に行ったことも、何枚もの絵ハガキが入った封筒を見つけて知った。父は、フェルメールの《天秤を持つ女》の絵葉書を3枚も買っていた。複数枚絵葉書を買っていたのは、この作品だけだった。

みなで探していたときに母が、「そういえば、システム手帳に書いておいたって言っていたような」と思い出し、黒革のシステム手帳を開くと、パスワードとか、どこに連絡をすべきかについて、などについて書かれてあった。

そうやってインターネットを解約し、ケーブルテレビ(父が夜中に海外のスポーツの試合を見るためだけに契約したようなもの)も解約し、メンバーシップも解約し、引き落としになっている会費なども把握し、なんとか落ち着いた。母は、父が生前メンバーシップを登録していた組織などには後日、連絡をいれた。妹は、ややこしい契約などの解約を全てやってくれた。

このような作業を行っているとき、どんどん父が生きていたという記録が世の中から消えてゆくなぁと思っていた。社会制度の上でも「故人」になってしまった。それはやはり、さみしさを伴う作業であった。でも、本当の意味での人間の死とは、誰の記憶からも消え、誰も思い出さなくなることだと思う。思い出すことで、やっぱり父は存在すると思っている。


父が開きもしなかったであろう、ゴルフコンペの参加賞であるエンディングノートは、同じく参加賞で父がいただいていたボールペンと一緒に、夫がもらうことになった。まだ白紙だけど。やっぱり、ちゃんと記録しておくと残された家族は助かると思う。









[PR]
by himarayasugi2 | 2017-08-30 17:45 | 実家 | Comments(0)

父について 3 介護

私にとって「介護」は、ずっと新聞やテレビの上でのみ存在する言葉だった。「要支援」と「要介護」の違いもわかっていなかった。介護保険の仕組みもわかっていなかった。「介護」に関するあらゆることを知らなかった。しかし、今年の3月から父が在宅医療を受けることになり、そのときはじめて介護認定とはどういうものか知る。そのときの判定では要支援1、その後夏に倒れて寝たきりになってから要介護5となった。そこから家族全員が、「介護」当事者となった。

最初の介護認定には立ち会った。印象的だったのが「薬とお金の管理を本人ができるか」という質問が表現を変えて何度も繰り返されたことだった。これは、自立しているかどうかを見極める上でのキーワードのようである。おそらく、物理的に動けるかどうか以上に、心の社会性というか、自立度を測るための問いなのだと思う。

あとで知るのだが、介護認定の際に被介護者は、自分が元気であることを必要以上にアピールするらしく、実際よりも要介護度が低めに判定されることが多いらしい。父は最期まで頭はクリアだったので、理路整然と自身の病歴を語り(プレゼンのようだったと記憶している)、最初の介護認定のときには、両手も力強く上に上げて見せるし、いつもより頑張っていたように見えた。で、結果が要支援1なのだから。あのときは、訪問医療のドクターも「要介護1はつくと思います」と太鼓判(?)を押してくれたのに、父は頑張りすぎた。

父の要介護度が要支援1の間は、私が手伝うことは買い物を頼まれるくらい。たまにリハビリに立ち会う程度だった。寝たきりになり父が要介護5になってからは、実家は介護一色となる。要支援1のときにすぐ、室内階段、洗面所、風呂場には手すりをつけておいた。寝たきりになると、介護ベッドを居間に隣接した和室に入れ、1階の全ての部屋の扉をあけ放ち、母は居間にベッドをいれてそこで眠るようになった。水切り籠に並んだ介護用の食器も増えていった。

当事者になり、新聞の見出しで目にする介護疲れや、老老介護の問題などを急に身近に感じるようになった。訪問看護、介護ヘルパー、リハビリスタッフのサービスを限度額めいっぱい使ったとしても、介護の担い手の中心はやはり家族だし、家族人数が少なければ、それだけ1人の負担も大きくなる。一番つらいのは、父なのだが、家族には別のつらさがあった。

父の在宅介護は、父の介護を中心になって行っていた母の圧迫骨折によって終了し、父は入院することになった。母の病院に付き添った夫によると、整形外科は、「もう、介護はやめてください、少なくともご主人は絶対に入院させてください」とはっきりと言ったという。

私は短い期間しか介護を経験していないが、介護サービスに従事している方の存在に救われ、感謝したことがたくさんある。訪問看護で来られるXさんは、おおらかで、明るくて、太陽のような看護師だった。礼儀正しく、丁寧で、そして親しみやすい魅力的な人だった。私は、Xさんが来てくれる日は、リラックスできていた。精神的な支えといってもいい。深夜でもいつでもなにかあったら、どんなことでもいいから電話して、と携帯の番号も教えてくれた。実際に深夜にかけることはなかったけれども、困ったときに頼れる存在があるだけで、心が落ち着いた。Xさんは、父が入院する日の朝にわざわざ立ち寄ってくれて、父に「お母さんのためなの、ここはちょっと頑張りましょう」と励ましてもくれた。父もXさんのことを信頼していた。

リハビリのYさんのことも、父は気に入っていたようだった。理知的で、わかりやすく説明をしてくれるYさんは、マッサージやストレッチも上手で、父はYさんのリハビリの日は笑顔を見せることが多かった。介護ヘルパーのZさんたちも明るくて、暖かい人だった。週に2回の訪問入浴の方も、丁寧な仕事をされる感じのいい人だった。介護サービスの人がいなかったら、私たちはかなり追い詰められていたと思う。みなさん、とても優しかった。ありがたかった。ほんとうに。

落ち着いたら、介護について書かれた本を一冊読んでみようと思う。本当は、父が要支援1になったときに読んで勉強すべきだったけれど。今後のためにも。



追記:
だんだん固形物が食べられなくなった父だが、柔らかいものだと口にできたときに気に入っていたもの。

マ・ビッシュのショートケーキ
セルクルトロワの川井ロール
スイーツは、夫と車ですぐ行ける範囲内で色々なお店のものを買っては父に届けたのだが、中でもこの2品については気に入ってくれていたようで、「またあれ買ってきて」とリクエストもされた。

帝国ホテルの缶のフレンチオニオンスープ
亡くなる1か月前でも口に出来た。

R1の飲むヨーグルト
これは好きだった。










[PR]
by himarayasugi2 | 2017-08-25 08:52 | 実家 | Comments(4)

父について 2 写真

葬儀のとき、父の棺に何をいれるか、母と相談した。棺には、入れてよいものといけないものがあり、メガネなどは入れられないという。夏のリネンのジャケット、同素材のハンチング帽、亡くなる直前まで読んでいた読みかけの本に、父が履こうと玄関に揃えていた革靴を入れることにした。母が、1枚の写真を出してきて、これも入れたいと言った。

写真は母が高校の時の卒業アルバムに使用した、17歳のころの母のモノクロの写真だった。父が無造作に脱ぎ捨てていたチノパンを畳もうとしたときに、バックポケットに入っている定期入れに母は気づき、なにげに定期入れを開いてみたら、母の高校の頃の写真がそこにあった。母が、高校生か大学生のころに父にあげたものだった。父は50年以上もその写真を定期と一緒に持ち続けていた。母は定期入れにあった写真を見つけたことは、結局父には黙っていたらしい。

「きっとこの頃の私のことが好きだったのよね」と自嘲気味に言う母に、葬儀の担当者のアラフォーくらいの男性が、「今も好きだから、ずっとお持ちになっているんですよ」と言った。写真の母は、シャープな顔立ちでキリっとした利発な感じの女子高生だった。父がずっと写真を持っていてくれたことは、嬉しかったと思う。

最後は、沢山のお花と参列者が父宛に書いた手紙を入れて棺の蓋を閉じた。

お葬式の前、父が夢に出てきた。冬によく着ていたフランネルの緑と黒のチェックのシャツにチノパンを履いていた。すっと立ち上がって私の前を歩いていくので、私が「お父さん、歩けるようになったの?」と訊ねるのだが、父はちらっと私を見て何も言わずに立ち去っていった。








[PR]
by himarayasugi2 | 2017-08-24 09:09 | 実家 | Comments(4)

父について 1

今年の夏に父が亡くなりました。詳しい闘病記録は母がつけていて(看護師や医師が驚くレベルの詳しさです)、私も別途記録しているので、それについてはブログではあえて書きません。淡々と経過だけをここに記録し、日常に戻るきっかけにしたいと思います。


先月、実家の父が亡くなった。

昨年の春に余命を告げられていた。余命宣告を受けてから、父は定期的に通院をしながら、ゴルフコンペに久しぶりに参加し、上位入賞を果たし、学生時代の友人のライブにも顔を出した。友人と集い、麻雀を楽しみ、沢山の本を読む、普段の父だ。そして、例年通り初夏から秋は八ヶ岳で母と過ごしていた。すでに医師の告げた余命時期は過ぎていた。

八ヶ岳から戻ってからも、父はいつもの日常を過ごしていた。しかし、年末ごろに食欲が落ちはじめ、今年の3月には体力も低下し、とうとう通院は難しくなる。3月からは在宅で訪問診療を受けることになった。このころ、父は食欲が全くなくて、家族はみな覚悟していたのだが、しばらくすると復調し、よく食べるようになる。これは、薬のお陰だった。

そしてまた車を運転し、夜の三宮で友人たちと麻雀を楽しみ、時間を忘れて本を読むという生活に戻る。しかし、6月に入り、徐々に体調は悪化する。とはいっても、3月の介護認定でも「要支援1」だったので、身の回りのことなどは以前と変わりなくすることができていた。読書量も落ちていなかった。食欲が落ちて、横になっている時間が長くなったくらいしか変化はなかった、でもそれは表面上だった。

ある日の夕方、隣の実家の母から「お父さんが立てないから、すぐ来てちょうだい」と電話があった。大慌てで隣に行くと、父がトイレにうずくまって動けないでいる。父は体重が落ちたといっても、178cmもあるので、母一人でひっぱりあげるのは大変である。私と母でひっぱりあげて、パイプ椅子に座らせ、その椅子を床に滑らせてとりあえず寝室のベッドまで父を連れてゆき、寝かせた。その日を境に父は寝たきりになった。

すぐに介護認定を受け直し、新たな介護プランを組み直す(*1)。それまでは週に1度の訪問診察と、週に2度ほど訪問リハビリだけだったが、それからは毎日介護関係の人が我が家に出入りすることになった。とはいっても、介護スタッフがいない時間帯のほうが圧倒的に長く、父の介護は、やはり母が中心になって行うことになる。私は実家の隣に住んでいるので、午前と午後、そして呼び出しに応じて手伝いに行った。東京の妹は、父が寝たきりになってすぐ、仕事のない日に実家に戻り、しばらく実家で手伝ってくれる。買い物は、夫が週末に車でまとめて実家の分も済ませてくれ、会社の帰りにも必要に応じて買い物をしてくれた。夫は、特に口に出して言わなかったけれども、とても気にかけてくれていた。我が家の家事をよく手伝ってくれたし、母の買い物リクエストにきめ細かく対応してくれた。でも母の負担は相当なものだった。父の筋力は日増しに衰え、身の置き所のないだるさに苦しんでいた。昼夜を問わず、母にそれを訴える。ある日、母は尋常でない腰痛を訴え、整形外科で胸椎圧迫骨折と診断され、絶対安静となる。

これ以上、父を家で介護するのは無理だとみなで判断する。母は、コルセットをつけて安静にしなくてはならなく、私が、母のサポートと父の介護をやると、おそらく今度は私が調子を崩す。やむなく父には入院してもらうことになった。父は、家で最期を迎えることを望んでいたので、本当に申し訳なかった。病院に長くいたくなかったのか、父は入院4日目に亡くなった。突然だった。そんなに長くはないことはわかっていたのだが、まさかこんなに早くとは誰も思わなかった。私は、亡くなる前日に病院に行き、父の体の向きを変えたり、飲み物を飲ませたり、歯磨きの用意をしたりと、家でやるようなことをやっていた。私が父のために最後にやったことは、大相撲中継にラジオの周波数を合わせ、父の耳元に置いたことだった。看護師さんあてに「大相撲を聴いています、父が眠っていたらラジオは消しておいてください」とメモを添えた。「お父さん、私は帰るね、また来るから」と言って午後4時すぎに病室を出た。父は弱弱しく「んー」と返事をしたと思う。母はそのあと1時間ほど病室で過ごし、父が眠ったのをみてタクシーで帰宅した。

翌朝病院から連絡があり、母と急行する。病院の廊下を私は走っていた。病室には、病院の近所のTおばさんと、叔父が既にきていた。少し前に父は亡くなっていた。担当の医師が母に父の様子を説明しているのを横でぼんやりと聞いていた。父は医師に「枯れるように亡くなりたい」と伝えていたというのが耳に入る。


父は、生前に母と葬儀についてはしっかり話し合っていた。母は、父と既に決めていた葬儀場に連絡し、一連の手配を済ませた。父が望んだスタイルで葬儀を行った。よいお葬式だったと思う。夫がぽつりと、「僕もこういうお葬式を、できたらここでやってもらいたい」と言う。私もそう思っていた。妹も同じ意見だった。涼しくなって母の腰が治ったら、納骨を行う。父も母も、かなり前に家から近くて眺めのよい、閑静な場所にお墓を購入していた。父はそこに入る。近くだから、行きやすいし、いい場所だと思う。

父の死後、少しずつ日常が戻ってきた。ケンと私は毎朝、散歩のあとに実家に上がり込み、お線香をあげる。妹は、8月は仕事をほとんど入れず、ずっと実家で母のサポートをしてくれている。

火葬場に行き、お骨上げもしているから父が亡くなったことには、納得はしているのだが、実家に行っても父がいないことが不思議だ。6月に亡くなった小林麻央さんのお姉さんである小林麻耶さんのブログに、麻央さんが亡くなった実感がなく、麻央さんがどこか遠くの病院に入院している感じだと書いてあったのだが、父を亡くしてからその感覚はよくわかる。父は遠くで生きているような気がしてならない。

母の胸椎圧迫骨折の経過は順調で、あと1週間ほどでコルセットもとれるらしい。まだ重いものを持ったり、かかんでの作業(草むしりとか)は控えないといけないが、痛みもかなり消えてきたとのこと。

父が亡くなる前日に、これが最後だとわかっていたら、もっと長く病室にいただろうし、気が済むまで体の向きを変えたりしてあげられたのにと思う。それにもっと優しい言葉をかけれたと思う。でも、これが最後だなんて神様しかわからないことだ。自宅での父の介護は、自分なりにやれたと思う。それには悔いはない。生前にもっと話をしておけばよかったとか、そういう悔いは残る。

*1)要介護5となった。


ここまで読んでいただいてありがとうございました。介護のこととか、訪問医療のこと、葬儀のこと、病院のこと、その後の母の事など、また少しずつ記録したいと思っています。よろしかったらそれもお付き合いください。

この夏は、ケンキュウ方面で頑張らないといけないことが多かったのですが、それがかなり滞っているため、今、焦りまくっています。先日、先生にも相談しました。先生の応対に救われ、力を出して頑張ろうと思えました。頑張ります。

[PR]
by himarayasugi2 | 2017-08-23 11:40 | 実家