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ヒマラヤスギ雑記

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カテゴリ:本など( 49 )

ざっと読んだ記録。

『70歳からの住まい選び』(小山健、幻冬舎)を読む。老眼読者を想定してか、字は大きいし、薄いしで、あっという間に読めてしまった。本書の後半は宣伝臭が強く、著者が社長を務めるサ高住こそが70歳以降の住まいに最適という結論になるが、前半を読むと高齢者の住宅事情に関する一般知識を得ることはできる。我が家の隣は同じ敷地に建つ実家で、実家の両親は今の家が終の棲家になるのだが、果たして私たち夫婦の終の棲家はどうなるのか。駅から12-15分ほど歩く、急こう配の坂道の途中という立地だけを考えた場合、メリット(自然が多い、静か、眺めがよい、など)と同じくらいのデメリット(買い物に不便、坂道しんどい)がある。たまに考えてしまう。今の家はとても気に入っているけどね。

この本、すぐに母の友人数名のところに回覧されるので、ざっと印象に残ったところをメモしておく。

本書では、安易にケアすることは高齢者の自立を妨げることを強調していた。

日本人は、「医療・介護・看護が建物内にある」ことをもって安心される方が多いようですが、同時に「依存を高めるものである」という側面も認識していただきたい(81頁)


(デンマークでは、住まいとケアを分離させ、地域居住のまま必要最低限のケアで最期まで自立した暮らしに導く)頑張って自力で暮らす方が生活のやりがいや喜びがあるのです。「活動的な緊張感が自立を支えている」状態です(80頁)。


自立状態にかかわらず一律に同じ手厚いケアを提供する建物に居住してしまうと、逆に自立の妨げになる場合もあるのだ。掃除洗濯や簡単な料理だったら自分でできる人と、ほぼ寝たきりの人では、必要とするケアも異なる。また、門限が決められ、入浴時間も定められ、外泊もできない施設より、基本的に自由に過ごし、困ったときだけ必要最低限のケアを受けられるという住宅のほうが本人にとっていいというのはわかる。

(デンマークの高齢者住宅では、自立支援が目的であり)同国の政府は「住宅のタイプが高齢者が受ける介護その他のサービスを決めるべきではない。個人のニーズが介護を決めるべき。介護は高齢者に応じたものであるべきで、高齢者の住居に応じたものであるべきではない」として1988年以降プライエム(特別養護老人ホームのようなもの)の新築を禁止しました(102-3頁)。


著者が社長を務めるサ高住の広い部屋(著者は40平米以上を推奨)に移り住むというのも悪くはない案なのだが、自宅に住みながら、必要なケアを受けるというのもいいかなと思った。本書は、「50代で親が倒れ、60代で家が倒れ、70代で自分が倒れる」傾向があるので、終の棲家を検討するのなら70代で自分が倒れる前に、できれば夫婦そろって引っ越せるときがよいとしている。確かに。70代だったらまだ自分の判断力に自信は持てそうなので、どちらにしても70代で健康なうちにある程度決めておきたいし、持ち物も減らしていきたいと思った。今の家で楽しく過ごそうと思ったら、足腰を鍛えることはマストだと改めて確認する。

現状、母(75歳)の友人たちは、未亡人の方も含めてみな自宅で元気に過ごしている。ご近所のTさん(数年前にご主人をなくされた)は、シルバー世代向けの民間が運営する倶楽部に入会し、週に2度サークルに参加されている。この倶楽部は、会員に向けて様々な生活サービスも提供しているようで、必要になったらそういうものの利用も考えられているらしい。Tさんも一度は駅至近のマンションへの引っ越しを検討されていたが、「朝起きて、海が見えて、鳥の声が聞こえることがこの年齢になると大切だから」と、元気なうちはこの坂道の町で暮らすことを選ばれたのだ。

繰り返しになるけど、足腰を鍛えることだけは怠らずにいこう。


夫のやる気:
朝食を食べ終わった夫が急に、「よし、今から乃が美で絶対に食パンをゲットしてくる!」と叫んで、右の拳を突き出していた。そのやる気、他に回してもいいんじゃないかとやや思う。芦屋の乃が美に飛んで行ってしまった。さきほど「乃が美、3人目!」というテンションの高いラインがきた。







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by himarayasugi2 | 2017-03-25 10:54 | 本など | Comments(0)

25年前に読んでいたら。

25年前、結婚してすぐに夫の転勤に伴い北関東に引っ越し、2年を過ごした。その間に再就職して、都内まで片道2時間少々かけて通勤していた。1日の通勤時間が往復で4時間以上だったあの頃、1日=24時間があまりにも短かったことはよく覚えている。一番つらかったのは、仕事が終わってからだった。残業をしないで一目散に帰ったとしても、家に着くのは午後7時半である。それから着替えて、気力を振り絞ってなんとか夕飯を作っていた。精神的にも落ち着かない日々だった。少しでも残業したら、バスがないこともあり、帰宅が午後10時や11時になることもざらだった。そうなると、お手上げで、近所のコンビニでインスタント食品を買って晩御飯にしたこともあった。平日は、いつも晩御飯のことが気になっていた。また土日は、目が覚めるまで寝て、あとは掃除と洗濯で1日はつぶれる。今思い返しても、なかなかタフだったと思う。

よく推奨されていた「週末に1週間分の夕飯の下ごしらえをまとめてする」なんて時間はなかった。特に家庭的でもなく、家事が得意でもない私が、もしそれを真面目にやっていたら、休みが全くない感じだっただろう。

書店で土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』を手にして、出だしの部分を読み、25年前の忙しかったときにこの本に出会っていたらよかったのになとしみじみ思った。最初の1行を読んで涙でそうになった;

この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んで欲しいのです。(8頁)


本書は、いわゆる一汁一菜のレシピを公開したものではない。また一汁一菜というのを「お洒落な和食のスタイル」として取り上げているのでもない。この本の主旨は、下記に集約されていると思う;

一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。(10頁)


土井さんは、時間がないときに無理して一汁三菜など用意する必要はないけれども、料理をすることの意味を忘れてはならないという。それは、食事というのは、ただ食べるだけでなく、買い物から、下ごしらえ、調理、食べる、片づけるという一連の行動が集まった行為だから、時間がないから毎回外食をする、出来合いのものを買うということが続くと、それは「人間は食べるために必然であった行動(働き)を、捨てることにな(る)」(38頁)のだ。この行為を最小の単位でも生活に根付かせるために、限られた時間内で全ての行動をきちんとやれるために、土井さんは、一汁一菜を提案しているのだと理解した。要は、食材を選んで料理をして、食べて、後片付けをするというのは、全て等しく大切な行動なのだ。

50頁からは、具体的な「一汁」の内容(アイディア)について触れている。決してレシピ集ではない。なのに、独特の語り口が読みやすく、すごーくやる気になる。土井さんが実際に日常で作られたお味噌汁の写真も沢山掲載されているのだけど、それらがみな、手でちぎったであろう豆腐に、キノコがどっさりはいった味噌汁だったり、またまた手でちぎったっぽいキャベツやら菜っ葉がどっさりの味噌汁だったりする。写真が、全く気取っていなくて、最近よく見られるSNS料理とは全く違うもの。すっぴんの食事の記録写真とでもいおうか。またそれが美味しそうなのだ。生卵を最後にお味噌汁に落としてみよう、ごま油で手で大胆にちぎったお豆腐を炒めて、キノコを加えてお味噌汁にしてしまおう、とか、やってみたいアイディア満載だった。まだ75頁までしか読んでいないけど、面白い。

本書の前半部分は食事を改めて見直そうと考えさせられる内容だった。お料理本というのではなくて、なんだろ、料理を通して生き方語る、みたいな感じ。初めて土井さんを知ったのは、2003年からしばらく放送されていた『食べて元気!ほらね』という番組で、宮根(このころの宮根は、まだ感じがよかったが、今は……)と一緒に料理を作るコーナーだった。あ、土井勝の息子やわー、面白いやん、みたいな感じでいつも楽しみにみていた。あの話し方が好きである。

よい本だと思った。長距離通勤時代の疲れ果てていた私が読んでいたら、きっと元気になっていたと思う。








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by himarayasugi2 | 2017-02-19 09:06 | 本など | Comments(2)

「コンビニ人間」を読んだ。

芥川賞受賞作が掲載されている『文藝春秋』を手にして、「コンビニ人間」を一気読みした。作者は、実際に今も週三でコンビニでバイトしている村田沙耶香さん。文章の上手い人がコンビニで働いていると、裏側をこんなに面白く描けるのか。普段何気なく立ち寄るコンビニが、このようにシステマティックで、マニュアルで制御された世界だとは知らなかった。

芥川賞受賞作が掲載されている『文藝春秋』は、必ず選考委員による選評も一緒にあって、作品を読み終わってから答え合わせのような気分で、選評を読むのも楽しみの一つだ。その中で小川洋子が、「社会的異物である主人公を、人工的に正常化したコンビニの箱の中に立たせたとき、外の世界にいる人々の怪しさが生々しく見えてくる」と書いていた。コンビニは、ものすごいマニュアルに支えられて「人工的に正常化」されているのだ。

現在、私がコンビニを使うときは、基本、どこでも同じ料金であるサービスを利用するとき、例えば、宅急便とか、なにかの料金の支払いとかがメインで、そのほかだと買い忘れに気がついて一番近くて、営業している店がコンビニだった、とか、あと、あまりないけど、帰宅時、深夜の駅で翌日の朝食のヨーグルトや牛乳を切らしていることに気づき、駅近のコンビニに駆けこむときとかとかである。たまに、すごく気になるコンビニスイーツを買うこともあった、あった。あら、意外と利用している。

キンロー時代は、通勤時、駅からオフィスまでの道のりにあるコンビニでペットボトルのお茶を必ず買っていた。ここで思い出したのは、私はあのとき、月曜から金曜まで、朝いつも同じ時間に同じコンビニで、同じお茶を買っていたことだ。当時の私は、コンビニで働く小説の主人公にとって、「朝という時間」を運ぶ存在のひとつであり、コンビニという「いつも回転し続けるゆるぎのない正常な世界」を形成するひとつのピースだったのだ。

毎朝コンビニに立ち寄っていたキンロー時代、コンビニでいつも同じお茶を買っていたのは、なぜだろう。めったに買う物が変わることはなかった。あれこれ選ぶ場所でもないと多分思っていて、できるだけ滞在時間を短くしようと無意識に行動していたかもしれない。マラソン選手が、レース中に給水するときにできるだけ時間のロスなくさっとドリンク(もしくは水を含めたスポンジ)をつかみ取り進んでいくのとやや重なる。違いは、お金を支払うことだけで。

コンビニは、接客を含めてマニュアルの存在が大きい。ここに立ち寄る人は、こういうものを探しているときが多いでしょ、と言わんばかりの絶妙な品揃え(電池、インスタント食品、旅行用の基礎化粧セット、暇つぶし用の雑誌、探すと見つからなくなる文房具などなど)は、広く浅く、深みもなく、面白味もなく、標準化されている。定期的にデータを見直して品揃えを変えているのだと思う。でも、コンビニのスタッフは、生身の人間で、いくらマニュアル通りにしか話さないにしても、やっぱり、そこは個性がでてくる。

新婚で北関東に住んでいたとき、部屋から徒歩1分のところにあったコンビニに、絶句するくらい「トロい」店員がいて、名前をヤマダ(仮名)さんと言った。ヤマダさんは、レジがあるのに計算間違いをし、レジが表示したのと異なる金額を客に告げ、おつりを間違い、品物を袋詰めするのが、絶望的に遅く、宅急便を持っていっても、あぶなっかしい応対で、いつもハラハラドキドキさせられていた。しまいには、私たち夫婦は、要領を得ない店員をさす形容詞として「ヤマダ」を使うようになったのだ。今でも「ヤマダ」はそういう店員の代名詞となっている(*1)。いかにヤマダさんが強烈なキャラだったかおわかりかと思う。

ヤマダさんの存在は、あのコンビニの「正常感」を常に乱していて、一種のノイズみたいだった。今のコンビニで、あんな人はレジにいないと思う。採用されないかと。

小説自体は、あっという間に読めて、だれないけど、白羽さんを家に連れてゆくという後半の展開は、ちょっとご都合主義かなと思った。島田雅彦の選評でも、同じことが指摘されていた。主人公が、36歳で独身、彼氏なし、バイト生活ということで周囲から異物扱いされるけど、私はそこまで主人公が異物とは思えなかった。異物か否かを決めるのに、絶対的な測りはなく、すべてが相対的なものだと思う。彼女が変わっているとすれば、あまり感情がなさそうなところだけで、20年の引きこもりとかと比べれば、家賃も自分で払い、誰にも迷惑をかけてないから、いいやんと思う。白羽のほうが、よっぽど異物だし、あれは、ちょっとクズすぎるかも。

*1)例えば、「今の人、ちょっとヤマダさんだったよね」みたいに思わず使ってしまう。 






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by himarayasugi2 | 2016-09-08 08:59 | 本など | Comments(0)

『魂の退社』を読んだ。その2

稲垣さんとは同年代ということもあって、賢いクラスメートのお話を聴いているような感じで本の内容がすっと頭に入ってくる。彼女が、派手な暮らしをしていたとき、ブティックに行って、担当店員に洋服やら小物やらを選んでもらって、豪快に買い上げたり(だから店員は、稲垣さんが店に現れるとテンションが上がっていたそう)、雑誌に出ていたふぐの白子鍋を食べに行こうと、その場で盛り上がったら夜中にタクシー飛ばして食べに行き、お気に入りの焼き鳥屋では全メニュー制覇し、高級ワインを開け、スポーツクラブにも行き・・・といった具合だったそう。私も、バブルのときは、給料が入れば決まった店に行って、担当の店員さんに選んでもらった服を買ったりしていたもん。そういう行為に酔っていたところがあったと思う。必要もないのに、無理して買った服もあったし。そうやって服を買うもんだって思っていたところもあった。

自分で稼いだお金で何をやっても自由ではあるが、稲垣さんはこういう「おいしい」ことから逃げ出したくなる。その理由をこう説明している;

[引用ここから]なぜなら、大きい幸せは小さな幸せを見えなくするからだ。知らず知らずのうちに、大きい幸せじゃなければ幸せを感じられない身体になってしまう(13頁)。[引用終わり]

昔、観た映画、『アメリ』で主人公のアメリが好きなこととして、乾燥豆(ひよこ豆かな?)の入った袋に手をいれて、その感触を楽しむとか、クレームブリュレの表面のパリパリのカラメルをぱりっと割る音が好きだとあった。その後もアメリは、ちょっとした小さな親切をこっそりと行い、ひっそりと喜んでいたと思う。その場面を観たときに、幸せというものは、日常にいくらでも存在していて、それに気づくかどうかなんじゃないかなって思ったのだ。「幸せ」は、大きい、小さい、高い、安い、豪華、簡素、で測るものでなく、感じるか、感じないかだけのものである。でも、大きくて、キラキラした見栄えのものだけを追っていたら、きっと稲垣さんの言うように、幸せに対するアンテナの感度が落ちてゆくのだろう。

現役の間は、こういう大きな幸せを追うことができても、定年退職したら、お金がないからそういうことがやりにくくなる。つまり、我慢することになるのだ、その人が現役時代に考えていた幸せを。それって、すごく不幸だと思う。お金がないから、幸せじゃないんだって思いながら人生後半の日々を過ごすのって、つまらない。そうではなくて、幸せや、人生の喜びに対する感度を研ぎ澄ませていけば、お金があろうが、なかろうが、関係なくその人は幸せでいられるんじゃないか、そのために稲垣さんは、まずは「おいしい」ことから距離を置くことを決意されたんだと思う。

その後、稲垣さんは地方に異動になり、お金を使わなくても楽しい生活を知ってゆく。震災の後にはついにほぼ電気を使わない生活に突入する。このあたり、絶対マネできないなーと思いつつも、かなり読ませる。稲垣さんは帰宅しても電気をつけずに、暗闇で目が慣れるまでじっと待つらしい。でも慣れてきたら、うっすら見えはじめ、着替えも、トイレもお風呂も、なんでもできるし、テレビをつけないから、暗闇と静寂が出現するとある。「つまり何かをなくすと、そこには何もなくなるんじゃなくて、別の可能性が立ち現れる」(104頁)のだ。テレビも電気も「ない」のではなく、暗闇と静寂が「ある」ということ。そういう風に、自然に状況を受容できるようになるには、私はまだまだ修行が足りないけれども、そういう考え方は好き。


晴れた日の早朝に、ケンと夫と美鈴池に散歩したとき、すごくハッピーだった。八ヶ岳がよく見えて、ケンが楽しそうで、人間も元気で、いいぞ、いいぞって思ったのだった。


実は、稲垣さんにはまってしまって、この本を読んだ翌日に、もう一冊、稲垣さんの本を買ってしまった。こういうこと、たまにあるのだ。大昔は、妹尾河童にはまって、文庫を全部そろえたことがあったし、椎名誠も結構揃えたと思う。文献、ほとんど進んでいませんが。

久しぶりの雨。かなり降っている。ケンの散歩に出るタイミングが難しい。






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by himarayasugi2 | 2016-07-26 08:23 | 本など | Comments(2)

『魂の退社』を読んだ。

稲垣えみ子さんの『魂の退社』を読んだ。あっという間に読めるが、内容は濃い。本当は読みながら線を引きたかったけど、夫も読むだろうから、代わりに付箋を貼った。沢山貼りすぎて本がフリフリになる。わかる、わかるとうなずきながら読む箇所もあれば、大笑いする箇所もあって、感想を一度にまとめるのは難しい。なので、付箋を貼った箇所の中からいくつか厳選して、自分に引き寄せて思ったことを記録する。

本の構成は、大きく分けて、退社する前と、退社後の生活の二部に分けられる。なぜ、稲垣さんが退社を選択したのか、それまでの経緯と、退社後、会社という守りがなくなってから彼女が社会を肌で感じた感想が書かれている。大笑いしたのが、会社を辞めて、今まで会社から貸与を受けていたスマホとパソコンを返却し、自分のスマホとパソコンを買うくだりである。稲垣さんは、これまでご自身でケータイを購入したことはなかった。つまり、ケータイショップに行ったことが初めてだったのだ。ケータイビジネスの「わけわからん感」が、常に私が感じていることと全く同じで、描写の的確さと赤裸々さに大笑いしてしまった(詳細は、「ケータイを買って3日間寝込む」「詐欺化するビジネス」「IT自立にて考察」の項(150頁~)を参照されたし)。

稲垣さんは、生まれて初めてケータイショップに1人で行き、なにもわからないこともきちんと店員に話し、「通話も通信も最低限のことしかしない(できない)からいちばん安いのでイイです」と主張するも、店員さんは、素人には絶対にわかりようもないようなプランを沢山出してきて、こっちが得だとかなんとかいいつつ、すぐに契約させてくれない。ああだ、こうだと、オプションてんこ盛りとなり、気付けば月額8000円以上の支払い契約となったのだ。このあたりのやりとりは、153-157頁に詳しくて、面白い。読みながら、「私も、絶対にわからんわー、稲垣さんみたいに頭脳明晰な人でもこうやから、私やったらもっとわけわからんままに、すごい月額になってたんとちゃうか」と心底思った。

店員が、こっちのほうがお得だからとか、これは絶対に必要だからとか、っていうのは、おそらくノルマのためなのかなと思う。圧倒的に不利な戦いである。ルールを完全に熟知している人と、丸腰の人が同じ土俵で戦って勝てるわけがない。先方は、各種プランを自由自在に組み合わせては、知らない間に、ごっそり契約金額に上乗せしてゆくのだ。でも、稲垣さんは、1人で行くだけエライと思う。私は、ガラケーのときでもスマホのときでも夫と一緒にカウンターに行っているし、しかも、スマホについては、格安スマホなので、稲垣さんが経験したような激烈なセールスはなかったのだ(それでも、うわーってなったもの、店の人の言っていることがわからなくて)。

スマホ購入後に、稲垣さんは、お父様について書かれていて、ここを少し引用する。

[引用ここから]我が父のことを思います。父はとても向上心が強いというか、歳をとっても時代についていきたいタイプで最近はスマホに興味津々なのです。(中略)その父がこういうお店に行ったらどうなっちゃうんだろうかと思うと泣けてくる。プライドの高い人だから、理解できないことがあっても理解したふりをするでしょう。いや私とて開き直って「理解できない」と繰り返したつもりですが、それでもあまりの情報格差に疲れ果ててしまい、結局は理解した「ふり」をしたのだ。(157-158)[引用終わり]


ここを読んで、私は自分の父親のことがすぐに頭に浮かんだ。父はガラケーのままだと思うけど、パソコンにしても、ネット回線にしても、ケーブルテレビにしても、この「理解したふり」をしているんだなと思うのだ。ほんとは、居心地の悪さをどこかで感じているだろう。だって、娘の私ですら、いつのまにこんなに世の中進んでおるんじゃって疲れているし。それに、稲垣さんが続けて書かれている「マイナンバー」についても、同じ意見である。結局、作ったけど、なにがいいんだか、さっぱりわかんない。大事に引き出しにしまっている。これ、いつ、使うんだろう。なにに得するのか、ほんとにわかってない(でも持っている、なんだこれ)。

この本についての感想は、続く予定。

ここで、私のスマホ生活25日目の様子など:
私のスマホは、格安スマホで、夫と私の2台合わせても、稲垣さんの1台分の月額料金よりもかなり安い。でも、ガラケーよりは高くなったのに、あまり使っていないのが、悔しいところ。火曜に充電して、次に充電したのが日曜というので、いかに使っていないかがわかるというもの。操作自体は、すぐ慣れたけど、スマホは、普通の昭和のおばさんには使いこなせない。なにが出来るのかも実はよくわかっていない。家にいるときは、パソコンで調べものをするし。スマホにしてよかったと思える瞬間がまだない。ちなみにケータイを持ってて便利やなと思ったのは、八ヶ岳で、東京から来る妹と初めて行く店でランチの待ち合わせが出来たとき、くらいか。ささやかすぎる。






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by himarayasugi2 | 2016-07-25 08:38 | 本など | Comments(0)

前ほど雑誌を読まなくなった。

気がつけば、雑誌を買うことがほとんどなくなっていた。

小学校低学年のときは毎月『小学X年生』を買ってもらい、高学年から中学2-3年くらいまでは、『りぼん』か『なかよし』をお小遣いで買っていた。高校からは、『MC Sister』、『Olieve』、『an・an』あるいは『nonno』のどれかをなんとなく買っていたと思う。高3から大学2-3回生までは『an・an』を月に2回くらい買って、『JJ』を友達に見せてもらって、『marie claire』(リニューアル前のもの)を祖母からお古で時々もらっていた。OLになってからは、『marie claire』と、あと『FRAU』も特集によっては買っていたと思う。映画に夢中になっていた時期は、『Screen』と『Roadshow』を毎号買っていた。

結婚してから少しインテリア雑誌を読みはじめ、東京で働くようになってからは、映画雑誌の『Premiere』英語版を新宿の洋書屋に毎号取り寄せてもらっていた。また、『Newsweek』の英語版と日本語版を定期購読していた。当時、私の周囲にこの三誌を定期購読している人は多かったと記憶している。横浜に引っ越したあたりで解約したと思う。結婚直後からつい数年前まで、英日のバイリンガルのミニコミ誌も年間購読していた。これも、読まなくなったから解約した。当時は、国際協力とか、女性のグローバルな活躍とか、そういう事例に関心があって、講読していたような気がする。年に1冊発行とあとは、A4のプリントが2回くらい届くのだが、ほとんど広告がないこともあり、購読料は少し高かった。たまに、旧『kunel』を買い、特集が気に入ったときだけ『pen』や『BRUTUS』、『CASA BRUTUS』を買う、みたいな感じだった(『CASA』は、創刊号を持っている)。最近は、この四誌もほとんど立ち読みで済ませる感じ。『クロワッサン』も年に1冊買うかどうかになった。『アルネ』はわりと買っていたほうかもしれない。

こうなった理由は、明確だ。インターネットを利用するようになったから。映画の情報も、インテリアやファッション、美容と健康の情報も、ネットが一番早いし、量は多い。とりあえず、今はどういう服がいいかみたいな一般的な情報は、ネットからで、私には十分である。インテリアや雑貨などは、ネットの方が幅広くいろいろなテイストのものを一度に見ることが出来るし。化粧品やサプリは、雑誌は、タイアップが多いから、ネットの口コミの方が信用できる。それでも雑誌を買うときは、付録狙いか、特集がどうしても読みたいか、写真がすごくきれいから欲しい、ネットでは絶対に読めない記事がある、みたいな理由である(以前、『アルネ』が村上春樹の家を取材していて、これは買った)。昔の『marie claire』の写真は、すごく素敵で、モノクロ写真を額縁にいれて飾ったこともあった。

雑誌がネットに完全にとって代わられることはないと思っている。昔、誰かが書いていて、うろ覚えだけど「価値のあるものが、活字として印刷される(*紙媒体で残る、という意味だと思う)」あるいは「長く残る」とあって、私はそれを正しいと思っているから。昔みたいに、一つの雑誌を毎号講読する読者は減ったと思う。市場が小さくなるのは避けられなくても、ターゲットが明確で、小さな領域を深く掘り下げた雑誌だったら続くと思うけど。そういうマニアな雑誌は、広告が取りにくいのだろうな。ビジネスとして成立しないのか。

で、高山なおみさんの神戸の引っ越しの記事がある『暮らしの手帖』は、買いたいと思っている。あと、ネットで見たけど、懐かしの「小林麻美」が取材を受けている『kunel』を、立ち読みしてみたいかも。面白かったら買う。

雑誌は、永久保存版と決めたもの以外は、まるごと長くとっておくことはほとんどない。気に入った写真、記事だけを切り取ってスクラップ帳に貼って、あとは捨てる。

ウェブマガジンやキュレーションサイトも見る。興味のある項目だけクリックすればいいから合理的だけど、紙の雑誌をめくるワクワク感みたいなのは、皆無。雑誌とは別物だと思う。 
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by himarayasugi2 | 2016-07-21 09:01 | 本など | Comments(0)

Lost in Translation

今でもそうなのだが、私は、旅行の準備をしているときに、突然不安になったり、さみしくなったりすることがある。旅行に行ってしまえば平気なのだが、準備をしているときに、理由もなく心細くなってしまう。スゥェーデン語では、そういう気持ちが一語で言い表せるらしい;

resfeber レースフェーベル(名詞)=旅に出る直前、不安と期待が入り混じって絶え間なく胸がドキドキすること。


私のように感じる人がスゥェーデンには大勢いるということがわかって、ちょっとほっとする。この言葉は、エラ・フランシス・サンダースという20代のイラストレーターの著書 『翻訳できない 世界のことば』 (原題:Lost in Translation 前田まゆみ訳、創元社、2016年)の61頁に紹介されている。英語圏の人にとって、一語に翻訳できない外国語を集めて、その意味を、著者の感性を通して説明した本である。すべての言葉に、言葉からイメージした著者による美しいイラストが添えられている。某外国語を一緒に習っている喜寿の男性が、先日、クラスに持ってきて見せてくれたのだ。52の言葉が選ばれていて、うち4つは日本語からである。あっという間に読めてしまうけれども(15分くらい)、私はこれをどうしても手元に置いておきたくて、家に帰ってすぐにアマゾンに発注した。自国では言葉にできない感覚を、言葉として持つ外国の人の感性が垣間見られる素敵な本である。美しいイラストに、心躍る言葉の数々、家族や友人に見せてあげたいと思ったのだ。

ここで、あれこれ引用してしまうと、今からこの本を手にとる人の楽しみをスポイルしてしまうから、やめておこうかと思ったのだけど、ほんの少しだったらいいかと(紹介したい気持ちが勝る)、ほんの少しだけ、特に気に入ったものをあと2つだけここに紹介したい。

キリグ kilig(タガログ語 名詞)=お腹の中に蝶が舞っている気分。たいてい、ロマンチックなことや、すてきなことが起きたときに感じる。(21頁)

イクトゥアルポク iktsuarpok (イヌイット語 名詞)=だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出てみてみること。(85頁)


他にも沢山、素敵な世界の言葉が紹介されている。日本語から選ばれた4つも、考えてみたら、外国人に説明するのは、難しい言葉ばかりである。言葉って面白い。お腹の中に蝶が舞っている気分っていうのが、ほんとに幸せそうで素敵だし、イヌイットの言葉の方も、厳しい冬が長いからこそ、人とのふれあいを求める気持ちが言語化されたみたいで、ほっとする。どちらのイラストもかわいい。語学のカテゴリーではなくて、どちらかというと、アートカテゴリーの本かな。

おすすめ。
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by himarayasugi2 | 2016-06-08 08:14 | 本など | Comments(0)

『暮らしを、みがく』

『暮らしを、みがく やりすぎない掃除術』をざっと読んだ。

(この本は、写真が多くて、総ページ数は95ページしかないので、この本についての下記感想は、今からこの本を読もうと思っている人にとったらネタバレになるかもしれないので、ご予定のあるかたは、お気を付けください。)

掃除の時間について:
多くのお掃除の達人が紹介されているのだが、みなが口を揃えて言うことは、短時間でも毎日やること、である。いろいろ読んで私が出来そうだと思ったのは;

掃除にかける時間は、朝は30分、夜は10分までとする、

というもの。掃除には、花瓶の水替えも入る。忙しい人は、玄関とトイレさえきれかったらOKにしていらしたり、それぞれでルールを設定している。朝30分でどれだけできるかは今から時間を計測してやってみるつもりなのだが、たぶん、全部は無理。なので、掃除の場所に優先順位をつけて、高いものからやっていって、30分でできなかった場所は、翌日は真っ先に手をつけるというようにやってみたらいいかなと思った。また、なにかのついでに「ささっと拭く」(歯磨きついでに蛇口、鏡、洗面ボールを)というのも積極的にやりたい。これが効果的だと思うのだ。

夜の10分は、ほぼキッチン周りに消える。コンロ、コンロ周りの壁、シンクの中、シンク周りを使い捨ての雑巾で拭いて、洗った食器を棚に戻して、ディッシュマットを干したら、ほぼ10分を使い切る。これは昨日の夜に実行済。

慣れてきたら短時間でカバーできる範囲も広がると思う。完璧を目指したらきりがないから(それに続かない)、とりあえず時間で区切る、これは大事だと思った。

掃除の道具について:
さっそくマネしたのが、捨てる予定の衣類を切って、使い捨ての雑巾にする、というもの。実は、以前に切ってストックしているものがあるけど、存在を忘れていた。今回、本を読んで触発されて、捨てる予定のTシャツとシャツと破れてしまったシーツなどをさらに切って加えた。それを、トイレ、キッチンに籠にいれてつるしておいた。このストックしている布が全部なくなったときには、私もかなり掃除が好きになっていると思う。

洗剤は、あまりいろいろ揃えても使いこなせないので、お風呂以外(お風呂担当は夫なので)の洗剤は、今のところ「とれるNo.1」と「ア・ディ オールパーパスクリーナー」を中心にトイレは既存のトイレ用洗剤がなくなったら「ア・ディ」を使うようにする。

心構え:
清掃のプロ、新津春子さんのインタビューが紹介されていた。私は、この人の『プロフェッショナル』を以前視たことがある。もっと番組で紹介してほしいと思った人だった。大きなプロジェクトを動かす、すごいプロフェッショナルもいいけれども、新津さんのような市井のプロフェッショナルの言葉は、わかりやすくて、ダイレクトに心に届くと視聴しているときに思ったもの。

その新津さんの掃除に対する言葉で印象的だったもの
「掃除が面倒くさいのは、(中略)たまった汚れを落とそうとするからです。汚れをどう落とすかという“事後掃除”より、いかに汚れをためないかという“予防掃除”は、虫歯にならないために歯磨きをするようなもの」

掃除を風水とか精神論的なものと結び付けるのはあまり好きでないので、新津さんの「掃除は、虫歯にならないために歯磨きするのと同じ」という言葉は、論理的で、わかりやすくて、納得できた。当たり前のことだけど、汚れてから掃除をするから、掃除がいやになるのであって、汚れないように掃除をする(=病気にならないように毎日健康に気を付ける)と考えるようにしたら、私が毎日ラジオ体操するのと同じと思えて、前向きになれる。

問題点:
掃除には、おそらく庭の手入れは入っていなさそうなのだ。庭の手入れを言い出したら、30分では無理なんよね。掃除に加えて、庭の手入れ(というか草むしり)がミニマム15分ってとこだろうか。夏には水やり時間も加わるから、そうなると掃除をさぼりそうだけど。

ときどき読み返しては、家を快適に維持できるように努力したい。

「15分草むしり」をしようと思ったら、今雨が降り出した。
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by himarayasugi2 | 2016-06-07 08:42 | 本など | Comments(0)

amazonレビューの炎上

*えらく長くなってしまいました。すみません。よかったら読んでください。


愛読しているブログで、『クウネル』のリニューアル版のアマゾンのレビューが、炎上しているということを知る。

雑誌『クウネル』は、リニューアル前に76号まで出て、今年の1月にリニューアルするということで、数か月休んでいた。私は、76冊の旧『クウネル』のうち、9冊購入している。2002年の創刊から2003年と2004年の号を中心に購入していて、2005年、2007年、2009年には各1冊ずつしか購入していなかった。創刊時は、こういうタイプの雑誌はなかったこともあって、新鮮だった。しかし、いつの間にか、立ち読みか、カフェでバックナンバーを見つけて読むだけとなる。雑誌自体をあまり買わなくなったこともあるし、似たような雑誌が次々と創刊されたこともある。理由はどうあれ、『クウネル』は、自腹で買う雑誌ではなくなった。

新『クウネル』は、本屋で見かけてパラパラと斜め読みしていた。そのときの感想は、80年代の『クロワッサン』とか『ELLE』とか『Marie Claire』に少し感じが似ているかなということと、なぜこの内容で、『クウネル』という名前のままなんだろうと思った。このときは、アマゾンのレビュー炎上については知らなかった。愛読ブログを読んで、これは、レビューを見なくてはいけないといそいそとアクセスしてきたのだ。

で、炎上している新『クウネル』の評価@1月26日19時44分は、254件のカスタマーレビューのうち星が1つ(いわゆる酷評レベル)のレビューが、227件(!!)で、最高評価の星5つのレビューは、11件だった。星1つという評価は、レビュワーの心情的には、無星(つまり零点)をつけているのと同じである。レビュワーの89%が「こんなん全然あかん!」と思ったことになる。というよりも、「全然あかん!」と思った人がその思いのたけをレビューにぶつけているようである。全てのレビューを読んだわけではないが、星1つのレビューは、決して、感情的に罵っているわけではなく、ただただ『クウネル』が、こんな風に改悪されて哀しいといったニュアンスが多い。で、星5つという最高評価をつけた人は、11人いるわけだけど、なかには、○クラ?みたいなのもあった。

この炎上の最大の原因は、リニューアルされた『クウネル』が、以前のものと中身が完全に別物になっているのにもかかわらず、『クウネル』という名前のまま、シレッとしているところだと思う。雑誌のカテゴリーが完全に変わっている、別物だと思う。なのに、なぜ、違う名前にしないのかと思ったのだが、それについて考察されている記事をネットで見つけた(http://blogos.com/article/156896/)。雑誌の名前を変えて新刊創刊とすると、既存読者を失い、販促費がかかるから、という出版社側の経済的事情があるからではないかと推測していた。なるほど、なるほど。しかし、アマゾンのレビューを見る限り、既存読者はほぼ失われたと思う。

炎上しているというのを知って、昨日の帰りに新『クウネル』を買ってみた。こういう人、意外と多いのではないだろうか。で、これを、リニューアルされた『クウネル』ではなく、新たに創刊された雑誌として読んでみた。ちなみにこの雑誌は、アラフィフ以上が対象らしい。で、思ったことは、中途半端な雑誌ということである。旧『クウネル』やほかのほっこり系雑誌と全く別物であり、『クロワッサン』と比べると情報は物足りないし、『&プレミアム』より地味であか抜けないし、『エクラ』『STORY』のようなトレンド感はなく、『家庭画報』のような有無を言わさぬゴージャス感もない。かといって、レビューの89%が星1という評価が妥当というほど悪い雑誌でもないが、良いとも思わない。つけるとしたら、星2.6くらい(これまた中途半端な評価!)。

フランス女性の特集記事は、特に既視感のある内容だった。80年代から90年代前半の『Marie Claire』で戸塚真弓さんが書いていたことと同じような感じだ。戸塚さんの記事が好きで、昔、戸塚さんの著書『パリ住み方の記』を買って今も持っているのだけど、それと同じようなことが新『クウネル』でも書かれていた。昔の『クロワッサン』のパリのインテリア特集や、バブル時代の『ELLE』でパリ在住の人のコラムとかで既に読んだことのあることばかりだ。バブル時代のフランス関連記事の焼き直しのような感じだ。何が言いたいかというと、アラフィフ以上の人で、一度は過去にフランスに憧れや関心を持っていたことのある人なら、知っているような話だということである。どうしてリニューアル一発目の特集が、フランスなんだろう。

それから、作家がエッセーを書いていたけど、なんかやっつけ仕事みたいで、ちっともよくなかった。提灯記事みたいな印象。対談も途中で読むのはリタイア。後ろのページに固めてある新連載も(以下同上)。アマゾンのレビューでは表紙に落胆している人が多かったのだが、それには同意。表紙は、これが新『クウネル』でなく、別の雑誌だとしても、他にやりようがあったやろ、というような、色、レイアウト、フォント、である。これは、誰が考えたデザインなんだろう。音楽、映画、芸術一般についても一切記述はなかった。続きが読みたい記事は、新連載の「女ひとりで家を建てる」かな。

旧『クウネル』はすごく愛されていたようだ。ただ、リニューアルするということは、固定ファンがいても予想より売れていなかったからだと思う。雑誌の内容を最大公約数的に変えてでも、利益は上げないとどうしようもないだろうし、雑誌は、広告収入で持っているというのも以前読んだことがある。そういう意味でも今までの『クウネル』を継続することは難しかったのかなと思う。

『クレア』からサブカルっぽさが消えてガッカリしたときのことを思い出した。 
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by himarayasugi2 | 2016-01-27 08:41 | 本など | Comments(0)

「又吉じゃないほう」のも読んだ。

「又吉じゃないほう」の芥川賞受賞作家、羽田圭介さんの受賞作『スクラップ・アンド・ビルド』も読んだ。87歳の祖父と同居する孫の視点から見た、介護生活を描いた小説だった。87歳の祖父の口癖は、「早く死にたい」なんだけど、実は「生」に執着している。インタビューで作家自身は、介護が家庭に入り込むと、家庭の雰囲気が悪くなると経験から答えていて、その雰囲気の悪さが、暗くなりすぎずにじわじわと伝わってくる。

孫は、祖父を楽に死なせてあげようと、過剰な介護を行う。祖父が体を動かさなければ、そのうち筋肉は衰えて死(孫はそれを尊厳死と考えている)に近づくと考えた孫は、祖父が筋肉を使わないように、祖父のためになんでも動いてやってあげる。孫の母親は、「自分でやれ!」「甘えんな!」と口汚く罵る。ものすごく家の雰囲気が悪く感じる。過剰な介護を続けているうちに孫は、祖父は、見た目以上に筋力もあり、また、死にたいなんて口だけで、生きていたいことに気付く。祖父は、適度に我儘を言い、ただ、構ってもらいたいだけだった。話の最後に孫は、再就職を決めて家を離れ、祖父は老人ホームに申し込み、暫く待機することになる。

こういう風に粗筋をまとめてしまうと、えらく暗い話のような気がするのだけど、ところがどっこい、ユーモラスで、途中、くすっと笑ったところが何度もあった。又吉さんの作品が、お笑い芸人について描かれていても、読んでいる間中ずっと悲しい気持ちになったのに対して、介護をテーマ(?)にしているのに、なんでこれは、こんなに面白いのだろう。その理由は、書いている人が、面白い人だからじゃないかと思う。実際、テレビで作家の羽田さんが話しているところを目にしたのだけど、この人って、天然ボケのような気がする。面白い自分に無自覚で、それが見ていておかしい。大真面目に面白いことを言うし(これが計算だとしたら、この人こそお笑いに向いているかもしれない)、大真面目に面白いことを書くのだ。又吉さんがテレビで受け答えしているのを見た印象は、真面目で誠実な、普通の人って感じだったけど、羽田さんの場合、なんか「本音むき出し」「無防備」で、独特の素の面白さがあった。


日常:
私が高1のときに家庭教師をしてくださった、当時大学院生だったHさんは、私の中高大の先輩で、修士を取ってから、今私が通っている大学で博士号を取った。そのHさんは、忙しく非常勤をされているのだけど、昨日ばったりと道の真ん中で会った。近況を話し、いろいろと励まされる。最近、本をお書きになったそうで、それを「一冊、あなたに差し上げる」とのこと。楽しみ。いろいろと立ったままお喋りしてしまった。Hさんと話すときは、変に気を遣わずにポンポン話ができるし、感覚が同じだから、話をしていてとても楽だ。 
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by himarayasugi2 | 2015-10-10 09:36 | 本など