ブログトップ

ヒマラヤスギ雑記

cedar2.exblog.jp

父について 3 介護

私にとって「介護」は、ずっと新聞やテレビの上でのみ存在する言葉だった。「要支援」と「要介護」の違いもわかっていなかった。介護保険の仕組みもわかっていなかった。「介護」に関するあらゆることを知らなかった。しかし、今年の3月から父が在宅医療を受けることになり、そのときはじめて介護認定とはどういうものか知る。そのときの判定では要支援1、その後夏に倒れて寝たきりになってから要介護5となった。そこから家族全員が、「介護」当事者となった。

最初の介護認定には立ち会った。印象的だったのが「薬とお金の管理を本人ができるか」という質問が表現を変えて何度も繰り返されたことだった。これは、自立しているかどうかを見極める上でのキーワードのようである。おそらく、物理的に動けるかどうか以上に、心の社会性というか、自立度を測るための問いなのだと思う。

あとで知るのだが、介護認定の際に被介護者は、自分が元気であることを必要以上にアピールするらしく、実際よりも要介護度が低めに判定されることが多いらしい。父は最期まで頭はクリアだったので、理路整然と自身の病歴を語り(プレゼンのようだったと記憶している)、最初の介護認定のときには、両手も力強く上に上げて見せるし、いつもより頑張っていたように見えた。で、結果が要支援1なのだから。あのときは、訪問医療のドクターも「要介護1はつくと思います」と太鼓判(?)を押してくれたのに、父は頑張りすぎた。

父の要介護度が要支援1の間は、私が手伝うことは買い物を頼まれるくらい。たまにリハビリに立ち会う程度だった。寝たきりになり父が要介護5になってからは、実家は介護一色となる。要支援1のときにすぐ、室内階段、洗面所、風呂場には手すりをつけておいた。寝たきりになると、介護ベッドを居間に隣接した和室に入れ、1階の全ての部屋の扉をあけ放ち、母は居間にベッドをいれてそこで眠るようになった。水切り籠に並んだ介護用の食器も増えていった。

当事者になり、新聞の見出しで目にする介護疲れや、老老介護の問題などを急に身近に感じるようになった。訪問看護、介護ヘルパー、リハビリスタッフのサービスを限度額めいっぱい使ったとしても、介護の担い手の中心はやはり家族だし、家族人数が少なければ、それだけ1人の負担も大きくなる。一番つらいのは、父なのだが、家族には別のつらさがあった。

父の在宅介護は、父の介護を中心になって行っていた母の圧迫骨折によって終了し、父は入院することになった。母の病院に付き添った夫によると、整形外科は、「もう、介護はやめてください、少なくともご主人は絶対に入院させてください」とはっきりと言ったという。

私は短い期間しか介護を経験していないが、介護サービスに従事している方の存在に救われ、感謝したことがたくさんある。訪問看護で来られるXさんは、おおらかで、明るくて、太陽のような看護師だった。礼儀正しく、丁寧で、そして親しみやすい魅力的な人だった。私は、Xさんが来てくれる日は、リラックスできていた。精神的な支えといってもいい。深夜でもいつでもなにかあったら、どんなことでもいいから電話して、と携帯の番号も教えてくれた。実際に深夜にかけることはなかったけれども、困ったときに頼れる存在があるだけで、心が落ち着いた。Xさんは、父が入院する日の朝にわざわざ立ち寄ってくれて、父に「お母さんのためなの、ここはちょっと頑張りましょう」と励ましてもくれた。父もXさんのことを信頼していた。

リハビリのYさんのことも、父は気に入っていたようだった。理知的で、わかりやすく説明をしてくれるYさんは、マッサージやストレッチも上手で、父はYさんのリハビリの日は笑顔を見せることが多かった。介護ヘルパーのZさんたちも明るくて、暖かい人だった。週に2回の訪問入浴の方も、丁寧な仕事をされる感じのいい人だった。介護サービスの人がいなかったら、私たちはかなり追い詰められていたと思う。みなさん、とても優しかった。ありがたかった。ほんとうに。

落ち着いたら、介護について書かれた本を一冊読んでみようと思う。本当は、父が要支援1になったときに読んで勉強すべきだったけれど。今後のためにも。



追記:
だんだん固形物が食べられなくなった父だが、柔らかいものだと口にできたときに気に入っていたもの。

マ・ビッシュのショートケーキ
セルクルトロワの川井ロール
スイーツは、夫と車ですぐ行ける範囲内で色々なお店のものを買っては父に届けたのだが、中でもこの2品については気に入ってくれていたようで、「またあれ買ってきて」とリクエストもされた。

帝国ホテルの缶のフレンチオニオンスープ
亡くなる1か月前でも口に出来た。

R1の飲むヨーグルト
これは好きだった。










[PR]
# by himarayasugi2 | 2017-08-25 08:52 | 実家 | Comments(4)

父について 2 写真

葬儀のとき、父の棺に何をいれるか、母と相談した。棺には、入れてよいものといけないものがあり、メガネなどは入れられないという。夏のリネンのジャケット、同素材のハンチング帽、亡くなる直前まで読んでいた読みかけの本に、父が履こうと玄関に揃えていた革靴を入れることにした。母が、1枚の写真を出してきて、これも入れたいと言った。

写真は母が高校の時の卒業アルバムに使用した、17歳のころの母のモノクロの写真だった。父が無造作に脱ぎ捨てていたチノパンを畳もうとしたときに、バックポケットに入っている定期入れに母は気づき、なにげに定期入れを開いてみたら、母の高校の頃の写真がそこにあった。母が、高校生か大学生のころに父にあげたものだった。父は50年以上もその写真を定期と一緒に持ち続けていた。母は定期入れにあった写真を見つけたことは、結局父には黙っていたらしい。

「きっとこの頃の私のことが好きだったのよね」と自嘲気味に言う母に、葬儀の担当者のアラフォーくらいの男性が、「今も好きだから、ずっとお持ちになっているんですよ」と言った。写真の母は、シャープな顔立ちでキリっとした利発な感じの女子高生だった。父がずっと写真を持っていてくれたことは、嬉しかったと思う。

最後は、沢山のお花と参列者が父宛に書いた手紙を入れて棺の蓋を閉じた。

お葬式の前、父が夢に出てきた。冬によく着ていたフランネルの緑と黒のチェックのシャツにチノパンを履いていた。すっと立ち上がって私の前を歩いていくので、私が「お父さん、歩けるようになったの?」と訊ねるのだが、父はちらっと私を見て何も言わずに立ち去っていった。








[PR]
# by himarayasugi2 | 2017-08-24 09:09 | 実家 | Comments(4)

父について 1

今年の夏に父が亡くなりました。詳しい闘病記録は母がつけていて(看護師や医師が驚くレベルの詳しさです)、私も別途記録しているので、それについてはブログではあえて書きません。淡々と経過だけをここに記録し、日常に戻るきっかけにしたいと思います。


先月、実家の父が亡くなった。

昨年の春に余命を告げられていた。余命宣告を受けてから、父は定期的に通院をしながら、ゴルフコンペに久しぶりに参加し、上位入賞を果たし、学生時代の友人のライブにも顔を出した。友人と集い、麻雀を楽しみ、沢山の本を読む、普段の父だ。そして、例年通り初夏から秋は八ヶ岳で母と過ごしていた。すでに医師の告げた余命時期は過ぎていた。

八ヶ岳から戻ってからも、父はいつもの日常を過ごしていた。しかし、年末ごろに食欲が落ちはじめ、今年の3月には体力も低下し、とうとう通院は難しくなる。3月からは在宅で訪問診療を受けることになった。このころ、父は食欲が全くなくて、家族はみな覚悟していたのだが、しばらくすると復調し、よく食べるようになる。これは、薬のお陰だった。

そしてまた車を運転し、夜の三宮で友人たちと麻雀を楽しみ、時間を忘れて本を読むという生活に戻る。しかし、6月に入り、徐々に体調は悪化する。とはいっても、3月の介護認定でも「要支援1」だったので、身の回りのことなどは以前と変わりなくすることができていた。読書量も落ちていなかった。食欲が落ちて、横になっている時間が長くなったくらいしか変化はなかった、でもそれは表面上だった。

ある日の夕方、隣の実家の母から「お父さんが立てないから、すぐ来てちょうだい」と電話があった。大慌てで隣に行くと、父がトイレにうずくまって動けないでいる。父は体重が落ちたといっても、178cmもあるので、母一人でひっぱりあげるのは大変である。私と母でひっぱりあげて、パイプ椅子に座らせ、その椅子を床に滑らせてとりあえず寝室のベッドまで父を連れてゆき、寝かせた。その日を境に父は寝たきりになった。

すぐに介護認定を受け直し、新たな介護プランを組み直す(*1)。それまでは週に1度の訪問診察と、週に2度ほど訪問リハビリだけだったが、それからは毎日介護関係の人が我が家に出入りすることになった。とはいっても、介護スタッフがいない時間帯のほうが圧倒的に長く、父の介護は、やはり母が中心になって行うことになる。私は実家の隣に住んでいるので、午前と午後、そして呼び出しに応じて手伝いに行った。東京の妹は、父が寝たきりになってすぐ、仕事のない日に実家に戻り、しばらく実家で手伝ってくれる。買い物は、夫が週末に車でまとめて実家の分も済ませてくれ、会社の帰りにも必要に応じて買い物をしてくれた。夫は、特に口に出して言わなかったけれども、とても気にかけてくれていた。我が家の家事をよく手伝ってくれたし、母の買い物リクエストにきめ細かく対応してくれた。でも母の負担は相当なものだった。父の筋力は日増しに衰え、身の置き所のないだるさに苦しんでいた。昼夜を問わず、母にそれを訴える。ある日、母は尋常でない腰痛を訴え、整形外科で胸椎圧迫骨折と診断され、絶対安静となる。

これ以上、父を家で介護するのは無理だとみなで判断する。母は、コルセットをつけて安静にしなくてはならなく、私が、母のサポートと父の介護をやると、おそらく今度は私が調子を崩す。やむなく父には入院してもらうことになった。父は、家で最期を迎えることを望んでいたので、本当に申し訳なかった。病院に長くいたくなかったのか、父は入院4日目に亡くなった。突然だった。そんなに長くはないことはわかっていたのだが、まさかこんなに早くとは誰も思わなかった。私は、亡くなる前日に病院に行き、父の体の向きを変えたり、飲み物を飲ませたり、歯磨きの用意をしたりと、家でやるようなことをやっていた。私が父のために最後にやったことは、大相撲中継にラジオの周波数を合わせ、父の耳元に置いたことだった。看護師さんあてに「大相撲を聴いています、父が眠っていたらラジオは消しておいてください」とメモを添えた。「お父さん、私は帰るね、また来るから」と言って午後4時すぎに病室を出た。父は弱弱しく「んー」と返事をしたと思う。母はそのあと1時間ほど病室で過ごし、父が眠ったのをみてタクシーで帰宅した。

翌朝病院から連絡があり、母と急行する。病院の廊下を私は走っていた。病室には、病院の近所のTおばさんと、叔父が既にきていた。少し前に父は亡くなっていた。担当の医師が母に父の様子を説明しているのを横でぼんやりと聞いていた。父は医師に「枯れるように亡くなりたい」と伝えていたというのが耳に入る。


父は、生前に母と葬儀についてはしっかり話し合っていた。母は、父と既に決めていた葬儀場に連絡し、一連の手配を済ませた。父が望んだスタイルで葬儀を行った。よいお葬式だったと思う。夫がぽつりと、「僕もこういうお葬式を、できたらここでやってもらいたい」と言う。私もそう思っていた。妹も同じ意見だった。涼しくなって母の腰が治ったら、納骨を行う。父も母も、かなり前に家から近くて眺めのよい、閑静な場所にお墓を購入していた。父はそこに入る。近くだから、行きやすいし、いい場所だと思う。

父の死後、少しずつ日常が戻ってきた。ケンと私は毎朝、散歩のあとに実家に上がり込み、お線香をあげる。妹は、8月は仕事をほとんど入れず、ずっと実家で母のサポートをしてくれている。

火葬場に行き、お骨上げもしているから父が亡くなったことには、納得はしているのだが、実家に行っても父がいないことが不思議だ。6月に亡くなった小林麻央さんのお姉さんである小林麻耶さんのブログに、麻央さんが亡くなった実感がなく、麻央さんがどこか遠くの病院に入院している感じだと書いてあったのだが、父を亡くしてからその感覚はよくわかる。父は遠くで生きているような気がしてならない。

母の胸椎圧迫骨折の経過は順調で、あと1週間ほどでコルセットもとれるらしい。まだ重いものを持ったり、かかんでの作業(草むしりとか)は控えないといけないが、痛みもかなり消えてきたとのこと。

父が亡くなる前日に、これが最後だとわかっていたら、もっと長く病室にいただろうし、気が済むまで体の向きを変えたりしてあげられたのにと思う。それにもっと優しい言葉をかけれたと思う。でも、これが最後だなんて神様しかわからないことだ。自宅での父の介護は、自分なりにやれたと思う。それには悔いはない。生前にもっと話をしておけばよかったとか、そういう悔いは残る。

*1)要介護5となった。


ここまで読んでいただいてありがとうございました。介護のこととか、訪問医療のこと、葬儀のこと、病院のこと、その後の母の事など、また少しずつ記録したいと思っています。よろしかったらそれもお付き合いください。

この夏は、ケンキュウ方面で頑張らないといけないことが多かったのですが、それがかなり滞っているため、今、焦りまくっています。先日、先生にも相談しました。先生の応対に救われ、力を出して頑張ろうと思えました。頑張ります。

[PR]
# by himarayasugi2 | 2017-08-23 11:40 | 実家

美しいものを見て、美味しいものを食べた記録。

ここ数日の美術館&食事記録。

美術館:
神戸滞在中の妹と、やっと行ってきたのが、『ブリューゲル 《バベルの塔》展』@大阪国立国際である。私は西洋の15世紀から17世紀までの絵画が好きだけど、あまり日本では人気がないのかなぁ(超有名どころ以外は)と思っていた。ところがどっこい、国立国際美術館は、朝10時過ぎに行ったんだけど結構な混雑っぷり。おそらくブリューゲルの《バベルの塔》についてのプロモーションが効果的だったようで(漫画家とのコラボあり)、東京展で大成功したから大阪展でもその勢いを保っているのだと思う。ブリューゲルの油彩画自体は、《バベル》一点だけだったと。あとは、ブリューゲルが下絵を描いた版画(沢山)と、ブリューゲル自身が彫ったエッチング(これは1点のみ)である。「ブリューゲル」って謳ってるけど。
c0221299_19525717.jpg
(写真撮影コーナー。ここも並んでいた。親子連れに頼んで妹との2ショットを撮ってもらった。東京タワーとかとバベルの塔が比較できるみたい。)

でも、版画もすごくいいし、ボスの油彩画も2点あったし、他の彫刻、版画に絵画(ヘームスケルクとかルーカス・ファン・レイデンとかもあった!)もよかった。ブリューゲルの版画は、兵庫県美でやっていた『ベルギー奇想の系譜(?)』の展覧会でも一部展示されていて、そのときもジワジワきていたのだけど、なんかあまりミュージアムショップに関連グッズを売っていなくてがっかりしていた。兵庫県美の展覧会も、これに全然負けてなかったと思うけど、なぜかガラガラだった。よかったと思うけど。

《バベルの塔》が今回の目玉である。最前列で見るためには並ばないといけなくて、妹と30分くらい並んだ。2列目で見る分は並ばなくてもいいことを途中で知る。2列目で見てから、続くコーナーで300%拡大の複製を見てから、隣のコーナーでじっくりCG映像を見たら十分という気もするけど、せっかくきたから並んでみた。

今回嬉しかったのは、この展覧会関連グッズの充実っぷりである。めちゃくちゃ買ってしまった。これでも、スノードームとTシャツは我慢したのだ。ブリューゲルの版画に出て来る不思議なキャラクターが、とにかくかわいくて、全部欲しかったよー。

買ったもの。
c0221299_1954766.jpg
(図録、クリアフォルダー、絵葉書、ブリューゲルの版画に出てきたキャラクターのエッグスタンド、同じくキャラクターのピンバッジをガチャガチャでゲット)
c0221299_19552021.jpg
(買った絵葉書。右の下のものは、ブリューゲルの手によるエッチングで、あとのものは、ブリューゲルの版画に登場するキャラクターたち。上段右の鳩サブレみたいなのが、かわいくて、これはエッグスタンドも買ってしまった。)

図録が2500円なので、ま、合計5000円を越えたのはいたしかたない。こんなにミュージアムショップで買い物をしたのは、数年前の東京での展覧会以来である(そのときは7000円以上も買って、周囲のお客さんに注目されてしまった)。図録には、なんと付録でバベルの塔のポスターがついていたのだ。これ、今トイレに貼っている船越桂のポスターを剥がしてトイレに貼ろう。

10時に美術館入りしたのに、美術館を後にしたのは2時過ぎ。人が多くてなかなか前に進まなかったのだ。で、ふらふらになってルクアイーレの地下で遅いランチを食べて帰宅する。クタクタ。大阪は暑かった。あと、ルクアの中のディスプレイは秋一色だったけど、まだまだ秋物は手に取る気がしない。


食事:
海外出張の多い妹が、マイレージがたまったからとご馳走してくれた。ANAのマイレージだそうで、ANA関連ホテル内の和食である。さくっと食べたもの。
c0221299_19571079.jpg
(枝豆のお豆腐?とイクラ)
c0221299_19574875.jpg
(シマアジと鯛。シマアジ、美味しかったわー)
c0221299_19582692.jpg
(なめらかなつみれ。上品なお味でした。)
c0221299_19585951.jpg
(美しい盛り付け。ベビーコーンを揚げたものが、かなり美味しかった。かなりここまででお腹いっぱいになる。)
c0221299_200527.jpg
(サーモン。ちょっと味が濃い?)
c0221299_2003379.jpg
(揚げ物。揚げたてのサクサク。熱々の天ぷら。)
c0221299_201815.jpg
(かやくご飯。)
c0221299_2014720.jpg
(デザート。ちょこんとお皿に絞られていたホイップクリームが、意外な美味しさ。)

ごちそうさまでした。ありがとう。

行ったお店:http://www.kobetankuma.co.jp/
[PR]
# by himarayasugi2 | 2017-08-17 20:43 | | Comments(0)

出来事記録的。

少しあいたけど、更新する。もう少し更新したいところ。

珍しい花:
ケンの散歩コースの途中に、石垣の立派なお家があり、その石垣の端にはリュウゼツランというサボテンが3-4株植えられている。巨大アロエみたいな葉で、ノコギリみたいなギザギザ感があり、わりとよく植えられていると思う。小さい頃からこのお家の前は通ることが多かったのだが、このリュウゼツランは何年たっても、全く変化がなく、尖った葉は触ると痛そうなのも同じだった。ツツジと異なりこういう植物は、変化がないから存在していることも忘れていた。

先日そのお家の前をケンと歩いていたら、近所の犬友さんがやってきて、「見てよ、あれ、リュウゼツランのすごい花が咲いているわよ」と教えてくれた。そのとき、あのギザギザの痛そうな葉はリュウゼツランであることを知った。「花?どこに?」と訊ねると、「あれよ!、あれ!あの電線に届いているびよーんとしている木みたいなのよ」と指差してくれる。これかー!
c0221299_14414727.jpg

これ、剪定し忘れた松かなんかだとばかり思っていた。松の細い幹だと思っていたのが、花の茎で先端の葉みたいなのが花らしい。花が咲く時に茎が伸びてくる。なんの代わり映えもなかった散歩道に、突如見慣れないものが現れたのだった。

ネットで検索したところ、リュウゼツランは50年に1度しか咲かないらしい。で、花が咲いたら枯れるとか。おそらく私が肉眼で見れる最初で最後のリュウゼツランの花になるだろう。下に参照サイト。
https://matome.naver.jp/odai/2134127829158945201

お茶:
今月は神戸にのんびり滞在中の妹が、出張先の香港から先日帰国した。香港に住む妹の友人Lと会ったとか。で、Lが選んでくれた中国のお茶をいただいた。これ、私がいただいた分。えらく沢山いただいてしまった。嬉しい。さっそく、バラのお茶と菊のお茶を家にあるデトックスティーとブレンドしてホットで飲んでいる。すごくよい香りがする。
c0221299_14421276.jpg
(ようけもらってしまった。L、どうもありがとう。)

リタイア後を見据えて:
夫が、神戸某所の住宅街にあるお洒落なジャズライブバーで、演奏させてもらった。5月に某音楽祭で演奏したギターデュオである。私は、妹と一緒に聴きに行った。会場は、木をふんだんに使った素敵な建物で、古い蔵に防音工事を施してライブバーにリノベーションしたものらしい。アプローチも凝っていて茶室っぽくもあり、センスがいいなと思った。お盆にもかかわらずお客さんは来てくださり、いい感じにハコが埋まって夫は嬉しそうだった。演奏、なかなか楽しかった。夫は、リタイア後はとにかく音楽三昧で過ごしたいと考えているらしく、今から準備に余念がない。秋にもまた某所で演奏する予定をいれていて、なんか楽しそう。いいな。
c0221299_14425662.jpg
(コンパクトな建物なので、内部の写真を撮影すると必ず誰かが写ってしまうため、ライブバーへのアプローチの一部をあげておく。知らないと通り過ぎてしまうような素敵なおうちのエントランスゲートの横に専用の小路があって、そこから中に入ってお庭に進むとこのアプローチが見える。ここを歩いて元は蔵だったライブ会場へと向かうのだ。)

[PR]
# by himarayasugi2 | 2017-08-13 14:51 | 雑感 | Comments(0)