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ヒマラヤスギ雑記

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『週刊ダイヤモンド』のTwitter特集

Twitter特集を組んでいる『週刊ダイヤモンド』(1月23日号)を、夫が買ってきた。ブログですら3ヶ月前に始めた私が、ツイッターを語るなんて100年早いとは思うのだが、観客はいなくても、とりあえず踊るべきなのかどうか、興味があったので雑誌を読んでみた。最近ちょっと、いちびっている私。

おお、これはいい!と思った点は、企業が消費者とのコミュニケーションツールとして使用する例。加ト吉の「うどんを食べているユーザーを検索してすかさずお礼をつぶやく」というのは、企業イメージも上がるし、押し付けがましくもなくてよいような。他の企業でも広告費の削減につながる、売り上げアップにもつながる、などなど企業にとってはツイッターは有効なツールであると感じた。政党がつぶやくというのも、上手くやれば効果があるのかもしれないし、政党に限らず、なにか志のある組織がポリシーを流布したい場合もツイッターなら読んでくれそうな気がする。ツイッターは生身のコミュニケーションよりも敷居が低いのだ。もしうどんを食べるたびに、ほんとに加ト吉の社員がやってきて「ありがとうございます」って言うのは現実ではありえない。

個人の場合のツイッターに関しては、「強者のためのメディア」と、smoothさんというアルファブロガーの方がダイヤモンドの取材に対して答えていて(60ページ)、これは納得。ツイッターで「今日の昼飯なんにしようか」(34ページ)とつぶやいて、わーっと反応が返ってくるのはそれが堀江貴文さんだからだろうし。記事で何度も目にしたのは「つながる力」を得る、というもの。そんなに大勢とつながっていたい?52ページに無名の一市民でフォロワーが2000人いるという方がインタビューされていて、「そもそも、私は圧倒的に友達が少ないほうでした。(携帯電話を買い換えたときに)メールアドレスの変更通知をだしたのは10人。うち家族が3人なので、友人はわずか7人です」と答えていた。7人も友人いたらいいやんと思う。7人のリアルの友人と、フォロワーの2000人は、同じ次元で比較できないと思うし。

個人の場合(有名人でないユーザー)は、楽しみ方は人それぞれだと思った。グーグルのような検索ツールにとって代わるというのは(64ページ)疑問。ネットの検索は、時刻表とか、通販、予約、旅行関係の情報、スペリングや、その他データを閲覧するくらいしか使用しないし、そもそもネットで得た情報の98%はオフィシャルで使えないことが多いと思っている(信頼性の面で)。ツイッターの検索といっても、(ニュースでなく)噂の検索、あるいはグルメブック、ガイドブックの代替としては使えても、従来のネット検索以上になるには時間がかかりそう。

以上が、ツイッター特集記事を読んだ感想。始めるのはまだまだまだ先かな。

<最近のケン先生>
わざとボールを階段途中に落として、こちらを振り返る。自分でとりにいけるくせに、「あれ、ボールがあんなとこにあるけど、ケンちゃんのためにとってきてくれる?」と言っている(多分)。相手にして欲しいときによくやる手。黙ってこっそり今日もボールを落とすケン。
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# by himarayasugi2 | 2010-01-19 09:45 | 雑感 | Comments(2)

フロアライトとバラバラの家具

楽天で買ったフロアスタンドが届いた。我が家のリビングは、最初から照明計画がライフスタイルと合っていなくて、なんか暗くてどうにかしたかったのだ。あらわし梁の上部にレールを取り付け、スポットライトが天井を照らす間接照明が、リビングのメイン照明なのだが、直接下を照らさないため、スポットライトを増やしたとしても暗いのだ。薄ぼんやりした感じ。下で本など読むことができない。間接照明は、雰囲気はいいが、テーブルで書類を広げて作業をしたり、床暖房の上にぺたんと座って本を読んだりするには向いていない。ペンダントライトの差込口はダイニングコーナーに一つだけしかないので、これ以上つるすことはできない。なので、フロアライトを追加して、必要に応じて明るさを補うことにした。入居してからほぼ4年たって、やっとフロアスタンドを購入。
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(手前の黒いのが、ダイニングテーブルを照らすペンダントライト。奥のシルバーのがフロアライト。昼間は柱の陰に潜んでいる。)

ダイニングのペンダントライトにインパクトがあったので、フロアライトは脇役のデザインで探しに探してやっと見つけた。なんとか調のデザインとかでなくて、灯りをつけて初めて「あ、ライトがあったのだ」と気付くような控えめな存在感がいい。ちょっとアーム部分が『巨人の星』に出てきた「大リーグ養成ギプス」みたいだけど、シンプルでわりと気に入っている。こないだ『相棒』で見たけれど、右京さんのデスクにあったデスクライトは、このフロアライトと同じシリーズだった。やった!右京さんとお揃い。

照明に限らず、何を揃えるのも時間がかかる。セットで買うのは好きでないので、いつも単品を少しずつ、少しずつ揃えていく。結果、バラバラになるのだ。意外と買うよりも、もらったり、拾ったりが多い。もらえるあてがなさそうだったら、買おうかな、みたいな。ダイニングの椅子もバラバラだ。祖父母の家や実家から持ってきたものがほとんどで、買ったのは一脚だけ。書斎コーナーの椅子ももらいものを張替えた。我が家にあるものは、みな出自が異なるのだ。私はこの「バラバラ感」が好きだし、落ち着く。「バラバラ」が楽しいのは、いつまでも「部屋作り進行中」と思えるから。
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(黒い椅子は、生まれたときから実家にあったものを持ってきた。座ると壊れるので、荷物置き。手前の椅子たちはみないろいろなところからやってきた。)

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『龍馬伝』の岩崎弥太郎に、誰かきれいな着物を着せてやってください!

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』も順調に二巻を読破。そうなると大河ドラマ『龍馬伝』もはずせない。見てしまう。そのうち『岩崎弥太郎伝』になったりしないのか。昨晩、岩崎弥太郎は、殺しても死なない男と言われていた。ダイハード弥太郎。とにかく汚い、嫉妬深い、僻みっぽい、龍馬にお礼もいわんし、旅のお供にはしたくない。なのに、なぜ、弥太郎を見捨てられないのだろう、そしてなぜ、こんなに強烈な印象を残すのだろう。福山龍馬、がんばれ。食われているかもしれない。来週は、いよいよ江戸に行く龍馬。とても楽しみだけれども、岩崎弥太郎も早く、江戸に来て欲しい。いつのまにか、弥太郎の無事ばかりを祈ってしまう。これは俳優の力量かも。

ひとつ思うのは、大河の『龍馬伝』のオープニングの音楽は合ってないと思う。CGも、野暮ったい。
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# by himarayasugi2 | 2010-01-18 09:13 | モノ | Comments(0)

阪神大震災から15年

15年前に阪神大震災が起こったとき、私は夫と東京で暮らしていた。朝、6時に起きてテレビをつけた夫が驚いた声を上げた。「関西で地震。震度6?7?うそやろう」テレビはただ近畿地方の地域図に震度を記した画面を映し、詳しいことはわからない、というナレーションが繰り返されているだけだった。次にテレビが流した映像は、阪神梅田駅の様子だった。なかなか神戸の映像が流れない。神戸は?

震度6とか7がどれほどのものか、想像もできなかったが、いつまでたっても映像が映らないことから、ただ大変なことが神戸に起こったということを薄々感じる。後でわかったのだが、神戸は被害が甚大すぎて、早朝の時点では明らかにならなかったのだ。心臓がどきどきしだして、立ったり座ったりしながら神戸の実家に何度も電話をかけたがつながらない。私の実家、夫の実家、交互にかけるも全く電話はつながらなかった。

二人とも仕事に行かなくてはいけなかったので、家を出た。途中の公衆電話で何度か神戸の実家にかけたと記憶しているが、実家の両親の声をきけたのは、私が職場についてからだった。父から電話がかかってきて、父も母も大丈夫、台所は食器が割れて大変だけれども、心配する必要はない、と。夫の実家にも連絡をとってくれたようで、夫の実家もみな大丈夫だから安心するようにといって電話を切った。両親は心配させないように、明るく大丈夫だと言っていたが、本当は水道もガスも止まり、情報もなく不安だったと思う。夫の職場に電話をかけて伝えると、夫が職場でテレビを見たら神戸が大変なことになっていると教えてくれた。休憩室に行ってテレビを見ると、高速道路が倒壊し、わずか二週間前、神戸に帰省したとき映画を見た阪急会館や、三宮の市街地の建物の多くも倒壊していることを知った。各地で火災が発生し、犠牲者の数もかなりになるとニュースは伝える。私の知っている神戸の町は失われた、そう思った。その日は仕事にならず、すぐに家に帰った、そして一日中テレビの画面を見つめていた。テレビでは神戸出身のレポーターが、取材で神戸の市街地をレポートしながら途中、泣き出してしまう。それを見て私も泣く。東京からは、祈るくらいしか出来なかった。毎年この時期になると、不安に押しつぶされそうだったあの日のことがよみがえる。
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# by himarayasugi2 | 2010-01-17 10:07 | 雑感

ネットで個人を特定されること。

ブログをはじめてもうすぐ3ヶ月になる。最初は、個人を特定されないようにと、注意して書いていたのだが、だんだんとちょっとした「個人情報」が開示されつつある。といっても、私の個人情報にどれだけの価値があるねんという話だし、それにアクセスも少ないので、今のところなんの問題もないのだけれど、隅々までブログを読めば(そういう人もいないけど)、わかる人には書いているのが誰か、わかるだろうと思う。それに、完全に「自分情報」を遮断してフィクションを書くなんて不可能だし。どっかでアウトプットしたいから、やっているわけだし。

神戸に住んでいて、女性で、草屋根の家に住んでいる、これで少し限定されそう。そして、ケンという柴犬がいる、これは獣医さん関係やドッグカフェ関係者が見たら(万が一でも見ないとは思うけど)、わかるような。それから、私は左利きなので(これもどっかに書いた)、左利きは右利き人口の「8から15%」らしいので(出典:ウィキぺディア)、さらに絞り込むことが可能だし(検索で利き手をどうやって調べるか)、内容から年齢もある程度は推測できる(だろう)。

「あんたが誰だろうと興味ないねんけど」って言われそう、すみません、すみません。匿名であってもブログを書くのは、やはりどこかに見つけて欲しい願望もあるのかなってふと思ったので、どこまでわかるものなのか考えてみたのだ。
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(こんな柴犬と一緒にいます。)

実は、本人に会う前から、先にブログだけを読んでいた人というのが、過去に2名いる。ちょうど家が竣工する少し前くらいのときで、同じように家を建築中の人のブログを読んでいたら、読み進むうちに同じ建築家に設計・監理を頼んでいたことがわかったのだ。完成見学会に行ってみて、間違いなくあのブログの人だとわかって驚いた。全くの偶然なのだ。意外とネットの世界は狭いと感じた。二十数年前にある教室で一緒だった人のサイトを、偶然見つけたこともあった。これも興味のあることを検索していて行き着いたのだ。結婚して姓が変わっていたのに、日記を読んでいるうちに、「あの人だ!」とわかった。その教室の話が書いてあったのだ。やはりヴァーチャルの世界でも現実でも、興味の対象は同じなので、広大な電脳空間といっても、同じような場所にアクセスするのかもしれない。
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(再掲:こんな屋根です。)

このブログはリアルでもお付き合いのある人にも(妹にもね)何名か知らせているけれど、知らない人も読んでくれているみたい。ありがとうございます。もし、何処かで、会ったとき、「実はブログ読んでました」と伝えてもらえると、やっぱり嬉しいかも。

個人を特定するのなんて、簡単だと思う。なので、内容にはある程度は気をつけようと思うけれど、建前日記みたいなのは書いていてもしょうがないし。読んだ人が不快に感じず、そして書いていて楽しく、あとで私が読み返しても面白いようなことが書けたらいいと思う。暫く続けていく予定。たまに毒を吐いて愚痴も書くかもしれないけれど。

昨晩みた『プラダを着た悪魔』ちょっと思ったこと。
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# by himarayasugi2 | 2010-01-16 11:08 | 雑感 | Comments(2)

小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』

小川洋子さんの『猫を抱いて象と泳ぐ』を読み終わる。冒頭、デパートの屋上の象、インディラの話で胸がしめつけられ、その感触を残したまま話の中にはいってゆく。『猫を抱いて』は、チェスに「美」を見出し、そしてその「美」のためにすべてを捧げるリトル・アリョーヒンの哀しくも美しい話だった。
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彼は、美しいチェスを理解し、チェスで美を創造できる。チェスは単なる勝負事ではなく、チェスは人生であり、美であり、愛であることを知るリトル・アリョーヒンは、弱い相手と対戦するときも、相手の弱さを晒すような勝ち方はせず、美しい棋譜を描いて、相手にとっても心地よい勝ち方をする。リトル・アリョーヒンにとってチェスは、キングを倒しておしまいといった単純なものではなく、彼自身の唯一の居場所であり、存在の理由である。対戦者を打ち負かすことがチェスの目的ではなく、対話をすることが目的なのだ。チェスは、彼にとって他者との唯一の対話手段である。チェスは世界と彼を結ぶ窓なのだ。
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体が大きくなることへの恐怖が何度も登場する。象のインディラやマスターのように、大きくなると外へ出られなくなることが、彼は怖い。けれどもインディラにとっての屋上や、マスターにとってのバスは、リトル・アリョーヒンにとってのチェス盤の下と同じだったのではと思う。インディラもマスターも大きくなって出られなかったのではなくて、留まるために大きくなったのかもしれない。リトル・アリョーヒンは、小さいままでいることでそこに留まろうとしたのだ。みな社会からなにがしかの理由で、はみ出てしまっている。そして居場所から切り離されないように、追い出されないように、場所と一体化しようとしているのだ。
(小さい写真2枚:先日元町の古本屋「SHIRASA」で買ったときにくれたオリジナルしおりのウラ・オモテ。薄紫色の模様がきれいで、フォントも品がいいので写真をとってみた。)

孤独なリトル・アリョーヒンがチェス盤に星の煌きや一条の光を見た瞬間や、チェスの駒の動きによって、対戦者の心と対話できたときなど、途中涙を流してしまった。最初のインディラのエピソードからずっと「涙」スイッチはオンになったまま。けれども決して哀しい話ではなくて、本を読んでいる間、ずっと夢を見ているようだった。一篇の美しい詩のような小説。

チェスのことはよく知らない。でも本を読んで、チェスは勝つことが一番大切ではなく(もちろん勝つために腕を磨くことは必要)、一番大切なのは美しいことなのかもしれない。強くて美しいではなく、美しくて強いことがいいように。

以下余談:『博士の愛した数式』は映画化されたが、主役の博士役は私のイメージでは緒方拳だった。寺尾聡はとてもよい俳優さんで、現に私はファンなのだが(中学のときはファンクラブにもはいっていた)、博士のイメージではなかった。個人的には『猫を抱いて』は映画化されないで欲しい。この世界観を映像化するのは、失敗か成功しかないと思うし。

今日の日の出
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# by himarayasugi2 | 2010-01-15 08:38 | 本など | Comments(2)