2月15日の日経で、尾形光琳の
《紅白梅図屏風》を再調査した結果、金箔を使っていたという結論が出たことが判明したという記事を見つける。タイミングよく梅の季節にこのニュース。この絵については、2004年に金箔や銀箔を使わずに描いたという分析結果が出ていたので、今回の調査結果は前回の調査結果を覆すものとなる。で、今後の議論が注目されるらしいのだが、私はどちらかというと、光琳が、金箔を使ってなかったと思いたいほうだ。使わなかった理由をあれやこれや想像するのが、楽しいから。
尾形光琳の伝えられている人物像は、道楽者、浪費家、粋人であり、幼少期から美しいもの、趣味のよいものに触れ、粋であることを意識していたと考えられる。なので、あえて金箔を使わずに、金箔を貼ったように見せる絵を遊びで描いたのではと、私は思いたい。光琳は、とても洗練された感覚の持ち主だったといわれているので、金箔をべたべた貼った、きんきらきんのパチンコの看板みたいな屏風はあまり好まなかったのではと想像。なので、金を使わず金を表現してやろか、ということで敢えて箔足を描いたと考えるのも楽しい。
もうひとつ想像する可能性は、光琳が浪費家ということから、制作費を別に使ってしまったから、金箔を買うお金が足りなくなったので、一部金箔を使用し、残りは「金箔様描写」で逃げ切ったのではないかという説(って私が勝手に想像しているだけなんだけど)。類まれな技術を持った光琳だったら、出来るはず。
いずれにしても、意外と人間臭い理由が背景にあると思っている。なんとなく、「金箔買うお金で酒を飲んでしまった。しもた!ちょっと残っている金箔を適当に散らしながら、金みたいにやってみよかな」と思案している光琳の姿が想像できるのだが、私の激しい思い込みかもしれない。でも絶対に、光琳のなんらかの意志が金箔使いの有無に関係していると思う。決して、経年変化とか、偶然で金箔が検出し辛くなったとかではないはず。偉い人に解明して欲しい。