人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

ヒマラヤスギ雑記

cedar2.exblog.jp

『龍馬伝』第11回

加尾を失ったことで龍馬は強くなったのだろうか、第11回では今までは見られなかった龍馬の図太さが描かれた回だった。面白かった。「桜田門外の変」に刺激を受け、攘夷の使命に燃える武市半平太は、下士を煽りたててしまい、その結果下士が上士を斬り殺すという事態が起こる。結局事態を収拾したのは、いきり立つ上士の刀の中に、丸腰でたった一人で赴いた龍馬だった。この件をきっかけに吉田東洋も武市半平太も龍馬に一目置き、そして双方、龍馬を自らの陣営に取り込もうとし、龍馬に選択を迫るという話。

ここにきて、龍馬と武市の視点の違いが明らかになる。武市は、龍馬が指摘したように、攘夷を掲げながら吉田東洋と喧嘩することしか考えていない。というよりも、攘夷を名目に、結局は自分を認めてもらいたいという欲望を動機に、人殺しを正当化しているように見える。武市は土佐しか見ていない。そして土佐は武市にとって、上士と下士という単純2構造の世界なのだ。攘夷ではなく、自分が上に行くことが、本当の目的(多分)。世界が小さいのだ。そして、自分の視野の狭さを龍馬に指摘され、その事実から目を逸らそうとする。龍馬の存在を疎ましく思いながらも、認めている。だから、自分の目的を果たすためには、自分よりも大きい龍馬の力が欲しいのだと思う。彼はある意味、龍馬を利用しようしている。

龍馬は武市とは全く異なる次元で世界を見ている。彼にとっての日本とは、世界の中のひとつの国であり、異国との関係から日本を見つめている。彼は、上士だ下士だという世界に身をおいていない。吉田東洋に上士にしてやると言われても、それは彼の求めているものではない。これが武市だったら、ここで武市のすごろくは上がりになるところだが、龍馬はそんな構造に取り込まれたくないのだ。土佐は龍馬にとって小さすぎる。土佐に彼の居場所がないのは、龍馬が土佐という狭い世界からはみ出てしまっているから。彼は今、大きくなろうとしている。けれどもまだ道を見つけていない。

吉田東洋は、そんな龍馬のことを見抜いている。だからこのままだと大きくなって自分にとって脅威となると感じたからこそ、この段階で自分の配下に取り込もうとしたのだと思う。吉田東洋役の俳優さんは、本業はダンサーらしい。すっごい存在感と迫力。岩崎弥太郎も本気で怖がっていたような。圧巻だった。それにしても、ビジュアルは怖すぎ。見たところ格別な特殊メークを施したようでもないのに、なんなんだろう、あの妖怪仕様は!あと数回で暗殺されてしまうのが残念。得がたいキャラクターだと思う。何でもいいから別の役でまた出演して欲しいくらい。

得がたいキャラクターといえば、ちょっとしか出番はなかったが、近藤正臣演じる山内豊信が今回見せた老獪な表情は衝撃的だった。ああいう表情はなかなか見られないと思う。

吉田東洋も山内豊信も、俳優が楽しそうに演じているように見える。

岩崎弥太郎は、吉田東洋と同じように龍馬の強さを理解している。しかし、己のために利用しようとか、取り込もうとかそういうことは考えない。ただただ、自分よりも大きな龍馬に圧倒されていて、その大きさを理解できるが故に、どうしようもなく嫉妬しているのだと思う。今日の弥太郎は、まぁまぁこざっぱりしていた。歯のホワイトニングの予定はないのだろうか。

『龍馬伝』第11回では、なぜか武市の気持ちが一番わかったような気がした。己の無力さを悟り、すぐさま強引に龍馬を取り込もうとする武市。武市は状況がわかっているだけに、彼は自分の無力さをどう受け止めたのだろう。哀しいくらい龍馬の力にすがろうとする武市が、なんだかとても可哀想に思えた。真面目で誠実で、頭のいい凡人の武市半平太は、こういう時代に土佐に生まれなかったら、穏やかに生きていけたと思う。逆に、こういう時代に生まれたからこそ、濃い人生を生きることができたともいえる。龍馬を見ていると、本当にやりたいことをするためには、人とつるまないことが正しいと感じる。来週が楽しみぜよ。 ちょっと長く書きすぎた。
by himarayasugi2 | 2010-03-15 08:21 | エンターテインメント | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< BGM考 『建物探訪』で注目する点 >>