携帯電話の番号とアドレスは、友人知人に何か用事があってメールするときとか、実際に会ったりするときとかについでに伝えている。わざわざ「携帯持ちました」、という件名でメールしたりすると、「今まで持ってなかったんかい?!」と、無駄に驚かせてしまいそうである。相変わらず通話は基本料金の980円以上全くかからず、無料通話分がどんどんたまってゆく。夫の携帯への無料Cメールと無料通話使用が中心だからだ。で、私が携帯をやっと持ったことについて、今新しい携帯を買うのだったら、普通スマホでしょうっていうコメントをする人がいた。私はこの、「普通~だ」っていうのが好きではない。
携帯から話は飛躍するのだけど、世間が定義する「普通」には最近全く興味がない。たとえば、昔と違って40代の女性といっても、いろいろな人がいる。子供のいる専業主婦、子供のいる共働き勤労主婦、シングル勤労マザー、子供がいない専業主婦、子供がいない共働き、離婚してシングルの勤労女性、ずっとシングル勤労女性、シングル家事手伝いなどなど書ききれない。多様なのだ。だから、「普通」とか「みんなだいたい~している」といった視点は、古臭いし野暮だと思う。上にあげただけで分類できるわけもなく、それは他年代の男女でも同じである。ボランティアに熱心な人もいれば、闘病中の人もいるし、勉強している人もいるし、働きたくても働けない人もいるし、家族の介護をしている人もいる。「人には事情がある、だから『なぜ、~してるのか/しないのか?』という質問をするときは、慎重になるべきだ」というのは、昔の職場の先輩の言葉。気をつけているけど、はずみで質問することもたまにある。それから、「あなたはずっと~するのが似合う」というのも考えてから言う方がいいと思う。その状態を続けたくて続けているかどうかは、その人しか知らないのだから。
と、話は「普通」へと強引に戻す。結局、「普通~だ」というフレーズは、相手に自分のやり方を強要する言葉だと思う。ここまで読み返したら、なんとなく恨みっぽく読めんこともないけど、何か個別の出来事について書いているとかではなくて、「普通~」と枕詞として語られることが多いことへの違和感を書いてみただけである。
とはいいつつ、一周忌に親族でなくて参列者として行く場合、「普通」何を着ていくべきなんだろう、って昨日は「普通」を求めてネット検索していた。
おしまい