本当の私(引用多し)

5月22日の日曜日の日経新聞の文化欄(32面)に、作家の木内昇さんがエッセーを書かれていた。切り抜いておいたので、印象に残った箇所を引用・記録。

木内さんは、3年ほど前から地元チームでソフトボールをされている。高校、大学と部活でされていたので、自信はあったらしい。しかし、二十数年ぶりにグランド入りをしたとき、まったく体が動かなくて、ショックを受けられる。そして、「これは本当の私じゃない」とご本人の言葉を借りると「さもしい言い訳」を口にされる。この主張が、無意味なことくらい木内さんは重々承知なのだが、そのときは、そう言い訳せずにはおれなかった。しかし、冷静になって気がついたのは、(以下引用)

私がソフトボールに取り組んだのは、学生時代だけ。期間にすれば七年弱である。人生におけるほんの一時の姿を、「本当の私」として仰々しく触れ回るのは、さすがに冒険がすぎやしまいか、と。


私には、過去の栄光などひとかけらもないのだけど、でも、これはわかる。笑ってしまった。このエッセーの後半は、就職したてのころ、会社で委縮して小さくなってしまった木内さんが、『坊ちゃん』をよく読み、どのような環境でも、誰が相手でも、自分のやり方を貫く坊ちゃんが羨ましかったと続く。坊ちゃんが、「もっと環境にふさわしいキャラを設定、演じることで周囲との軋轢を巧みに回避するような」「そつなく周りと調和すれば」、坊ちゃんは学校を辞める羽目にはならなかっただろうと思いつつも、木内さんは自分を守ることに重きを置きすぎると、つまらないと言う。そういうことを重ねてゆくと、「発する言葉に温度のない、見どころの薄い人間になり果てる気がするのだ」と。

(以下引用)
抜き身の自分で世の中を渡るのは覚悟がいる。なぜならその道程はどうしたって、恥ずかしいこと情けないこと格好悪いことで埋め尽くされてしまうからだ。(中略)けれど存外、その失敗にこそ自分らしさが宿っていて、過ぎてみれば妙に愛おしく感じられるのは不思議である。もしかするとそれは、(中略)体裁も外聞もお構いなしに、体当たりでなにかに取り組んだ瞬間だったからかもしれない。もちろん傷を負うこともある。が、それものちのち自らを成長させる糧になったりして、長い目でみれば無駄なことなどひとつもないと心から思えるのだ。


タイミングからしても、5月病に罹った新入社員への励ましっぽくも感じられるけど、このエッセー、30年近く前に新入社員だったおばちゃんの心にも響くものがあった。確かに、長い目でみれば無駄なことなどひとつもないと思うのだけど、数々の失敗やら、恥ずかしいことを懐かしむ日が自分にはやってくるのだろうかと、ちと心配である。何をやるにも綱渡りだからだ。余裕がないと思う。綱渡りが上手くなったような気もするけど。

散歩、掃除洗濯、アイロンかけ、野草茶の準備、すべて完了!やっと晴れてくれて嬉しい。
[PR]
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by himarayasugi2 | 2016-05-27 10:30 | 雑感 | Comments(0)