父について 1

今年の夏に父が亡くなりました。詳しい闘病記録は母がつけていて(看護師や医師が驚くレベルの詳しさです)、私も別途記録しているので、それについてはブログではあえて書きません。淡々と経過だけをここに記録し、日常に戻るきっかけにしたいと思います。


先月、実家の父が亡くなった。

昨年の春に余命を告げられていた。余命宣告を受けてから、父は定期的に通院をしながら、ゴルフコンペに久しぶりに参加し、上位入賞を果たし、学生時代の友人のライブにも顔を出した。友人と集い、麻雀を楽しみ、沢山の本を読む、普段の父だ。そして、例年通り初夏から秋は八ヶ岳で母と過ごしていた。すでに医師の告げた余命時期は過ぎていた。

八ヶ岳から戻ってからも、父はいつもの日常を過ごしていた。しかし、年末ごろに食欲が落ちはじめ、今年の3月には体力も低下し、とうとう通院は難しくなる。3月からは在宅で訪問診療を受けることになった。このころ、父は食欲が全くなくて、家族はみな覚悟していたのだが、しばらくすると復調し、よく食べるようになる。これは、薬のお陰だった。

そしてまた車を運転し、夜の三宮で友人たちと麻雀を楽しみ、時間を忘れて本を読むという生活に戻る。しかし、6月に入り、徐々に体調は悪化する。とはいっても、3月の介護認定でも「要支援1」だったので、身の回りのことなどは以前と変わりなくすることができていた。読書量も落ちていなかった。食欲が落ちて、横になっている時間が長くなったくらいしか変化はなかった、でもそれは表面上だった。

ある日の夕方、隣の実家の母から「お父さんが立てないから、すぐ来てちょうだい」と電話があった。大慌てで隣に行くと、父がトイレにうずくまって動けないでいる。父は体重が落ちたといっても、178cmもあるので、母一人でひっぱりあげるのは大変である。私と母でひっぱりあげて、パイプ椅子に座らせ、その椅子を床に滑らせてとりあえず寝室のベッドまで父を連れてゆき、寝かせた。その日を境に父は寝たきりになった。

すぐに介護認定を受け直し、新たな介護プランを組み直す(*1)。それまでは週に1度の訪問診察と、週に2度ほど訪問リハビリだけだったが、それからは毎日介護関係の人が我が家に出入りすることになった。とはいっても、介護スタッフがいない時間帯のほうが圧倒的に長く、父の介護は、やはり母が中心になって行うことになる。私は実家の隣に住んでいるので、午前と午後、そして呼び出しに応じて手伝いに行った。東京の妹は、父が寝たきりになってすぐ、仕事のない日に実家に戻り、しばらく実家で手伝ってくれる。買い物は、夫が週末に車でまとめて実家の分も済ませてくれ、会社の帰りにも必要に応じて買い物をしてくれた。夫は、特に口に出して言わなかったけれども、とても気にかけてくれていた。我が家の家事をよく手伝ってくれたし、母の買い物リクエストにきめ細かく対応してくれた。でも母の負担は相当なものだった。父の筋力は日増しに衰え、身の置き所のないだるさに苦しんでいた。昼夜を問わず、母にそれを訴える。ある日、母は尋常でない腰痛を訴え、整形外科で胸椎圧迫骨折と診断され、絶対安静となる。

これ以上、父を家で介護するのは無理だとみなで判断する。母は、コルセットをつけて安静にしなくてはならなく、私が、母のサポートと父の介護をやると、おそらく今度は私が調子を崩す。やむなく父には入院してもらうことになった。父は、家で最期を迎えることを望んでいたので、本当に申し訳なかった。病院に長くいたくなかったのか、父は入院4日目に亡くなった。突然だった。そんなに長くはないことはわかっていたのだが、まさかこんなに早くとは誰も思わなかった。私は、亡くなる前日に病院に行き、父の体の向きを変えたり、飲み物を飲ませたり、歯磨きの用意をしたりと、家でやるようなことをやっていた。私が父のために最後にやったことは、大相撲中継にラジオの周波数を合わせ、父の耳元に置いたことだった。看護師さんあてに「大相撲を聴いています、父が眠っていたらラジオは消しておいてください」とメモを添えた。「お父さん、私は帰るね、また来るから」と言って午後4時すぎに病室を出た。父は弱弱しく「んー」と返事をしたと思う。母はそのあと1時間ほど病室で過ごし、父が眠ったのをみてタクシーで帰宅した。

翌朝病院から連絡があり、母と急行する。病院の廊下を私は走っていた。病室には、病院の近所のTおばさんと、叔父が既にきていた。少し前に父は亡くなっていた。担当の医師が母に父の様子を説明しているのを横でぼんやりと聞いていた。父は医師に「枯れるように亡くなりたい」と伝えていたというのが耳に入る。


父は、生前に母と葬儀についてはしっかり話し合っていた。母は、父と既に決めていた葬儀場に連絡し、一連の手配を済ませた。父が望んだスタイルで葬儀を行った。よいお葬式だったと思う。夫がぽつりと、「僕もこういうお葬式を、できたらここでやってもらいたい」と言う。私もそう思っていた。妹も同じ意見だった。涼しくなって母の腰が治ったら、納骨を行う。父も母も、かなり前に家から近くて眺めのよい、閑静な場所にお墓を購入していた。父はそこに入る。近くだから、行きやすいし、いい場所だと思う。

父の死後、少しずつ日常が戻ってきた。ケンと私は毎朝、散歩のあとに実家に上がり込み、お線香をあげる。妹は、8月は仕事をほとんど入れず、ずっと実家で母のサポートをしてくれている。

火葬場に行き、お骨上げもしているから父が亡くなったことには、納得はしているのだが、実家に行っても父がいないことが不思議だ。6月に亡くなった小林麻央さんのお姉さんである小林麻耶さんのブログに、麻央さんが亡くなった実感がなく、麻央さんがどこか遠くの病院に入院している感じだと書いてあったのだが、父を亡くしてからその感覚はよくわかる。父は遠くで生きているような気がしてならない。

母の胸椎圧迫骨折の経過は順調で、あと1週間ほどでコルセットもとれるらしい。まだ重いものを持ったり、かかんでの作業(草むしりとか)は控えないといけないが、痛みもかなり消えてきたとのこと。

父が亡くなる前日に、これが最後だとわかっていたら、もっと長く病室にいただろうし、気が済むまで体の向きを変えたりしてあげられたのにと思う。それにもっと優しい言葉をかけれたと思う。でも、これが最後だなんて神様しかわからないことだ。自宅での父の介護は、自分なりにやれたと思う。それには悔いはない。生前にもっと話をしておけばよかったとか、そういう悔いは残る。

*1)要介護5となった。


ここまで読んでいただいてありがとうございました。介護のこととか、訪問医療のこと、葬儀のこと、病院のこと、その後の母の事など、また少しずつ記録したいと思っています。よろしかったらそれもお付き合いください。

この夏は、ケンキュウ方面で頑張らないといけないことが多かったのですが、それがかなり滞っているため、今、焦りまくっています。先日、先生にも相談しました。先生の応対に救われ、力を出して頑張ろうと思えました。頑張ります。

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by himarayasugi2 | 2017-08-23 11:40 | 実家