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ヒマラヤスギ雑記

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カテゴリ:本など( 53 )

意外な展開/ドラマ

意外な展開
大学でも文献は購入してもらえるのだが、常に参照するものは、自分で買う。こういう本は、最初から読み手が限定されているから、部数も少なく書店で売られていることはまずない。ほとんどの場合、ネット書店から購入する。価格が高いため、中古の美品を狙うことが多い。研究対象によっても必要な文献の価格はまちまちで、T君がどうしても必要とした本の中には、過去、1冊60万円もするものもあった。そうなると自分ではまず買えない。私がやっている分野での「must have」本の中には、1セットが全6巻で、1冊が中古でも10万円前後みたいなのもある。おそらくこの6巻セットを個人宅で所有している研究者は日本では3人もいないんじゃないかと思う。普通は図書館とか研究室に置く本だ。

自分で買う上限は、1冊の価格が頑張っても2万円未満である(本音だと1万5千円未満が望ましい)。高い本は、トラブルを考えると怖くて頼めない。海外の書店だと、何か月も待たされることもあるし(*1)、古書だと落丁本であることが判明したとしても、連絡とってクレームいれて、送りかえして、お金返してもらって、代替本を送ってもらって、などといったプロセスを滞りなく終えられる自信が全くない。実際、先日の落丁本(美品と謳っていた中古本だったが、ボロボロのボロで、15ページ落丁していて、同じページが重複しているというどうしようもないボロ本)については、あきらめたし(まぁ、許せる価格だった、それ以外は読めるし、ボロだけど)。

ある文献を購入する必要がでてきた。〇マゾンで著者名とタイトルで検索すると、新品と中古品でそのとき6-7冊がリストアップされた。よくあることだが、そのリストでは「新品よりも中古品が高い現象」と「同じ本なのに価格差ありすぎ現象」が同時に発生していた。一番安い本が、新品で8500円(+送料)で、そのとき一番高い本は、中古本で3万数千円もしていた。他もすべて2万円以上する中古本なのだ。これは、一体……?価格が崩壊していてわけわからず。

この場合、普通なら一番安い新品を買うのだけど、今までの経験から、ことはそう単純ではないとわかる。まず、欲しい文献は英語なのだが、8500円の新品はイタリアの古書店が販売している(この分野の本がイタリアにあること自体が珍しいのではないかな)。そのほかの2万円以上の中古本は英語圏の古書店が販売するものだった。イタリアの古書店が上がってきたのは、今回が初めてである。その時点で、「ヤバいかも」と思う。似たタイトルの異なる本で、しかも全然必要のない本かもしれない。英語でなくて、イタリア語だったら、アウトだし(英語と書いてあっても、そこは信用できないところが哀しい)。またいつ届くのかも読めないし。おそらく英語圏の古書店から高い本を買うほうが、リスクは低いと思うのだけど、ここまで価格差があると、なかなか決断できない。2日ほど考えて、今回は、イタリアに賭けてみることにした。安さに負けた。

送料込みで9千円ちょっとである。思い切ってクリックした。ボロボロの本でもいいから、早く届けて欲しい。ボロボロの本でもいいから、落丁のない本を届けて欲しい。ボロボロの本でもいいから英語であって欲しい。などなどぐるぐる考える。夜にクリックして、寝る。

クリックしてからおよそ60時間後、UPSの人が「イタリアからお荷物届いてまーす」ともって来てくれた!早い!すぐにびりびりと破いて中を確認したら、間違いなく欲しい本だった。英語だし。イタリア、疑ってごめん。ま、新品といいつつ、カバーが少し破れていて、それをこっそり裏からメンディングテープで貼り合わせていたけど。許容範囲である。一か月以内に届いたら御の字だと思っていたら、60時間後に届けてくれた。Iちゃんに会ったときに話したら、「信じられない!奇跡です!」と喜んでくれた。地味に嬉しい出来事である。喜ぶのはそのへんにして、早く読まないと。

*1)ゼミ先生が、1冊、1冊、アメリカ、オランダ、ドイツ、イギリスの古書店と粘り強く交渉してくださり、6年かけて6巻全てを揃えてもらった。もちろんすべて中古の美品である。1冊が届くのに、最長で1年、最短で2-3か月かかった。この案件は、私がやったら絶対に挫折していた。途中で心が折れていたと思う。

ドラマ
視聴率が低迷しているらしいけど、今期とても面白く視聴しているのが、『シグナル』である。坂口健太郎が、すごーくいいのだ。笑いながら怒る演技が、すごくいい。顔があっさりしているのだけど、背が高くて、スタイルがよくて、何を着てもかっこよくて、スタイリッシュである。うん。いい。

このドラマの渡部篤郎は、役柄がとにかく最低である。役者のイメージダウンになるんじゃないかと心配になるくらい。それだけ演技が上手なんだろうけど。最終回では、こてんぱにやられて欲しい。









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by himarayasugi2 | 2018-06-07 11:15 | 本など | Comments(0)

子供の頃の読書

母がTおばさんから借りていた『トムは真夜中の庭で』を読んだ。とても面白くて、一気に読めてしまった。私が大好きなファンタジー小説だった。あらすじをウィキペディアの「トムは真夜中の庭で」の項から引用する。

弟のピーターがはしかにかかり、おじとおばの住むアパートに預けられた少年トム。その邸宅には庭すら無く、はしかのために外出すらできない彼は退屈し切っていた。そんなある日の夜、ホールの大時計が奇妙にも「13時」を告げたのをきっかけに、彼は存在しないはずの不思議な庭園を発見する。そこはヴィクトリア朝時代のメルバン家という一家の庭園であった。それから毎日、彼は真夜中になると庭園へと抜け出し、そこで出会った少女、ハティと遊ぶようになる。しかしながら、庭園の中では時間の「流れる速さ」や「順序」が訪れるごとに違っていた。彼はだんだんと、ハティの「時」と自分の「時」が同じでないことに気づいていく。


トムが遊ぶ庭園は、真夜中にしか存在しない。そしてトムの姿もハティと園丁と動物や鳥しか見ることができない。この小説は、ほんとにネタバレ厳禁なので、これ以上は書けないのだけど、ハティはトムと出会うことで、幸せな時間を持てたのだと思う。読み終わって、幸せな気分に浸る。時空を越えて違う世界へ行くという物語で好きなのは、他には「ナルニア国」シリーズがある。クローゼットが冬のナルニア国と繋がっているという物語のオープニングに、わくわくした覚えがある。

小さいころからファンタジーが好きで、それはもしかしたらずっと児童文学の研究をしていたTおばさんの影響なのかもしれない。最近だと梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』も『家守奇譚』もTおばさんの紹介だった。久しぶりに児童文学のファンタジーを読んで、子供の頃の気持ちをちょっと思い出した。なので、子供のころに読んで、ただただ好きだったファンタジー系の本のタイトルを思い出して書いてみる。

『みどりのゆび』、『不思議の国のアリス』、『鏡の国のアリス』、『ホビットの冒険』、『モモ』、『ソフィーのいたずら』、『グリーンノウの魔女』、「ナルニア国」シリーズ、名前忘れちゃったけど、人形が冴えない女の子を成長させるファンタジー、『指輪物語』などなど、名前を思い出せないものもたくさんある。ファンタジーでないけど、小学校5年生のときは、岩波の『あしながおじさん』(手紙形式)に夢中になった。あの世界にどっぷりつかっていた。そしてそのまま『ジェーン・エア』とか『嵐が丘』『風と共に去りぬ』に走ったのだっけ。中学のときにほぼ徹夜して読んだのを思い出した。

昔は、ものすごい熱量で読書してたなぁと。本を読むことがほんとに楽しかった。そういうの、しばらく忘れていた。この年齢で『トムは真夜中の庭で』と出会って、久しぶりに前のめりになって読み切った。こういう読書、またやりたいな。





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by himarayasugi2 | 2018-04-18 23:46 | 本など | Comments(0)

『大家さんと僕』 *追記②になった

今朝は、この冬で一番寒い朝だった。実家の庭の鉢には分厚く氷が張っていた。
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(氷の厚みがおわかりだろうか。1cm近かった。いつもなら、石で一回コンっと叩けばぴしっと割れるのに、何度もたたいてやっと割れた。)

朝散歩の後、実家に寄ると母が漫画を貸してくれた。妹が面白いから読むように母に主張し、母が書店で買って帰ってきたのだ。母も絶賛する。「これ、すぐ読んで。次にTさん(近所の母の友達)に貸すから」と持たされる。私は、去年に論文を出してから、楽しみのための読書をしようと本を購入したり、実家の本棚から取ってきたり、母から借りたりしていて、うち3-4冊くらいは読んだのだけど、まだ未読の山が残っている。
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(ミステリーから、新書とか、小説とか、目につく場所に積んでおけばプレッシャーで読むだろうと思って積み上げ攻撃である。あと、バッグの中にも文庫本が数冊未読のまま眠っている。どーしよー。)

なかなか未読の山が小さくならない理由のひとつにこういう割込みがあるからなのだ。でも、漫画だからすぐ読めるだろうと、早速家に帰って読み始める。それが、これ。
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30分くらいで読み終えた。笑いながら、涙ぐむ場面が多々あって、ほんとにあっという間に終わってしまった。左手で挟んでいる残りのページが薄くなるのが名残惜しいような、素敵な漫画エッセーである。カラテカという芸人ユニットの矢部太郎さんは、現在、1人暮らしをしている87歳の女性の大家さんと一つ屋根の下、二世帯住宅の二階のワンルームに住んでいる。その大家さんと矢部さんの実際の交流をエッセー漫画にしている。とにかく、大家さんがかわいらしくて、チャーミングなのだ。「明太子を買うためだけにタクシー飛ばして伊勢丹に行くような(素敵な)方」と不動産屋で紹介されて、不安しかなかった矢部さんなのだが、少しずつ大家さんと仲良くなっていく。仲良くなれるのは、大家さんが魅力的な方というのもあるけれども、矢部さんが素直で優しいところも大きい。

矢部さんは、大家さんとお茶をし、京王プラザの中華を食べて、知覧に旅行に行き、伊勢丹のお買い物にも一緒に行く。大家さんは、矢部さんのお誕生日の前日に、お誕生日おめでとう、とおはぎに仏壇のろうそくをさして祝ってくれる。お誕生日当日は、大切な人とパーティをするだろうから前日にしたというのだ。「来年は当日に祝ってくれてもいいですよ」と心の中でこたえる矢部さん。そういうなんともいえないやりとりが、どのページにもあって、おかしくて笑える場面ばかりだけど、涙腺がゆるい人は笑い泣きになることは確実。

どのエピソードもとても好きなのだけど、朝帰りの話とか、銀杏拾いの提案のところとか、大家さんのゆっくりご飯とか、詳しく書くとネタバレになるので自粛だけど、ひとつだけ、矢部さんが出演した新喜劇(吉本新喜劇だと思う)に、大家さんを招待したとき、上演後に楽屋に来た大家さんが、新喜劇のみんなに「舞台とっても素敵でした 若い頃に観た『マクベス』を思い起こしました」と感想を言う場面も好き。新喜劇の人たちは、誰も『マクベス』を観たことなかったけど、みんなで誇らしい気持ちになって喜ぶっていう場面なのだ。上品で、ユーモアのセンスがあって、優しい大家さんと矢部さんの交流がずっと続きますように。この漫画エッセーの続編が待ち遠しい。

これ以上内容に触れられないけど、とにかくおすすめ。


さー、今から苦手な書類仕事をやっつける! 


追記:老後はこんな感じでいたい。大家さんみたいな87歳になりたいと、まじで思った。書いておこう。
追記②:さきほど母に本を返しにいったら、「これ、20万部売れているんだって、でも、昨日私が買ったから、20万と1部になったわ」とドヤ顔で言っていた。いや、昨日買った人はお母さんだけじゃないと思うけど。






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by himarayasugi2 | 2018-01-11 10:33 | 本など | Comments(0)

やっと読了

大型論文案件を(とりあえず)終わらせた後、真っ先にやらねばならなかったことが、借りていた本を読了することであった。研究室で今年の5月の連休明けにK先生から、「面白いから読んでみて」と貸し出された本、前野ウルド浩太郎さんの著書、『バッタを倒しにアフリカへ』は、あっという間に研究室中の人気となり、ついにウェイティングリストが出来る事態に至る。私はリストの3番目。前の人が借りていた期間が夏休みを挟んでいたために、私の手元に回ってきたのは、9月末で、しばらく笑いながら読んでいたのだが、論文案件が佳境に入っていった時点で、論文提出するまで一端本を置くことになる。

私の次はM1の子で、私が読み終わるのを首を長くして待っていた。私の切羽詰まった状況をわかってくれていたために、急かせなかったみたいで、申し訳ないなと思っていた。

で、昨日、読み終わった。来週やっと次の読み手に本を渡せる。お待たせしましたー。ごめんねーっ(軽)。

前置きが長くなったけど、一応本の感想も。

香川照之は、かなり昆虫が好きで、昆虫の被り物を装着してテレビに出演して、暑苦しく昆虫愛を語っていたけど、メインの仕事は俳優業である。でも、前野さんの場合は、香川照之の昆虫愛モードが(いや、昆虫愛の強さでいったらそれ以上)、24時間365日なわけである。モーリタニアというアフリカの地で、ひたすらバッタを追い続け、無収入ポスドク状態に震えながらも、研究への熱意は衰えず、ガムシャラで熱い。読んでいて、大笑いしながらも、そのバイタリティに圧倒される。

異文化の地(お酒がNGのイスラム圏)で、気候も自然も慣れるまでは大変で、人との付き合い方もやっぱり慣れるまでは大変なはずの西アフリカ モーリタニアで、みんなと仲良くなって、生き生きと、めげずにバッタを追いかけている著者の姿は、なんだか神々しい。著者の逞しさとか、楽天的なところとか、なんでも笑い飛ばせるところとか、ほんとに素敵だ。

バッタの本というよりは、ファーブルに憧れていた少年が、西アフリカでリアルファーブルへと成長してゆく過程を、ユーモアたっぷりに描いたノン・フィクションである。読んで元気がでること間違いなし。

とはいえ、前野さんが遭遇したアクシデントを考えると、この人はやっぱり強いと思う。並じゃない。フランス出張から戻ったら、宿舎がゴキブリに覆われていたとか、砂漠でサソリに刺されてかなりヤバかったとか、宿舎に大量のノミが発生して、噛まれまくるとか、虫が苦手な私にとっては、5秒ももたないだろう。以下、心に残る言葉。

「それにしても、目標とは生きていく上でなんと重要なのだろう。あるとなしとでは毎日の充実感が大違いだ」(201頁)
モーリタニアでは、蛸のことを「プルプル」と言う(かわいい!)。「築地銀だこ」のタコ焼きに使われているらしい。(247頁)

第7章からは、無収入のポスドク状態について、かなり悩んだ心の内がつづられている。著者は、とにかくバッタの研究とバッタ博士の存在を日本で周知するべきだと思い、広報活動を考えるのだ。269頁から271頁あたりは、論文を書く手を休めて広報活動を開始することへの覚悟が書かれていて、読ませる。大変そうなのだけど、悲壮感はなく、ユーモアのある文章なのは、執筆時点で無収入問題が解決されているからというのもあるだろうけど、もともとこの著者の前向きな気質というのもおおいに関係があると思う。周囲の人が絶妙なタイミングで著者に救いの手をさしのべるのも、彼の人柄だろう。

この後著者は、京大の『白眉プロジェクト』に見事合格し(倍率30倍!)、無収入状態から抜けでる。

著者は、先行きが不透明だった無収入時代、日本の友人の華やかなFacebookを見ては落ち込んでいた。落ち込む必要なんてないのに。著者のアフリカでの時間は、濃密で、輝いていて、「イイネ」3億個でも足りない。というか、クリックなんかで評価できない。

香川照之もそうだけど、昆虫の好きな人はチャーミングな人が多いと思う。前野さんの本を読みながら、昔、日経新聞の文化欄で見た青木淳一さんのことを思い出した。この人は、ホソカタムシの研究をされている。


面白い本だった! 









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by himarayasugi2 | 2017-11-29 10:14 | 本など | Comments(2)

ざっと読んだ記録。

『70歳からの住まい選び』(小山健、幻冬舎)を読む。老眼読者を想定してか、字は大きいし、薄いしで、あっという間に読めてしまった。本書の後半は宣伝臭が強く、著者が社長を務めるサ高住こそが70歳以降の住まいに最適という結論になるが、前半を読むと高齢者の住宅事情に関する一般知識を得ることはできる。我が家の隣は同じ敷地に建つ実家で、実家の両親は今の家が終の棲家になるのだが、果たして私たち夫婦の終の棲家はどうなるのか。駅から12-15分ほど歩く、急こう配の坂道の途中という立地だけを考えた場合、メリット(自然が多い、静か、眺めがよい、など)と同じくらいのデメリット(買い物に不便、坂道しんどい)がある。たまに考えてしまう。今の家はとても気に入っているけどね。

この本、すぐに母の友人数名のところに回覧されるので、ざっと印象に残ったところをメモしておく。

本書では、安易にケアすることは高齢者の自立を妨げることを強調していた。

日本人は、「医療・介護・看護が建物内にある」ことをもって安心される方が多いようですが、同時に「依存を高めるものである」という側面も認識していただきたい(81頁)


(デンマークでは、住まいとケアを分離させ、地域居住のまま必要最低限のケアで最期まで自立した暮らしに導く)頑張って自力で暮らす方が生活のやりがいや喜びがあるのです。「活動的な緊張感が自立を支えている」状態です(80頁)。


自立状態にかかわらず一律に同じ手厚いケアを提供する建物に居住してしまうと、逆に自立の妨げになる場合もあるのだ。掃除洗濯や簡単な料理だったら自分でできる人と、ほぼ寝たきりの人では、必要とするケアも異なる。また、門限が決められ、入浴時間も定められ、外泊もできない施設より、基本的に自由に過ごし、困ったときだけ必要最低限のケアを受けられるという住宅のほうが本人にとっていいというのはわかる。

(デンマークの高齢者住宅では、自立支援が目的であり)同国の政府は「住宅のタイプが高齢者が受ける介護その他のサービスを決めるべきではない。個人のニーズが介護を決めるべき。介護は高齢者に応じたものであるべきで、高齢者の住居に応じたものであるべきではない」として1988年以降プライエム(特別養護老人ホームのようなもの)の新築を禁止しました(102-3頁)。


著者が社長を務めるサ高住の広い部屋(著者は40平米以上を推奨)に移り住むというのも悪くはない案なのだが、自宅に住みながら、必要なケアを受けるというのもいいかなと思った。本書は、「50代で親が倒れ、60代で家が倒れ、70代で自分が倒れる」傾向があるので、終の棲家を検討するのなら70代で自分が倒れる前に、できれば夫婦そろって引っ越せるときがよいとしている。確かに。70代だったらまだ自分の判断力に自信は持てそうなので、どちらにしても70代で健康なうちにある程度決めておきたいし、持ち物も減らしていきたいと思った。今の家で楽しく過ごそうと思ったら、足腰を鍛えることはマストだと改めて確認する。

現状、母(75歳)の友人たちは、未亡人の方も含めてみな自宅で元気に過ごしている。ご近所のTさん(数年前にご主人をなくされた)は、シルバー世代向けの民間が運営する倶楽部に入会し、週に2度サークルに参加されている。この倶楽部は、会員に向けて様々な生活サービスも提供しているようで、必要になったらそういうものの利用も考えられているらしい。Tさんも一度は駅至近のマンションへの引っ越しを検討されていたが、「朝起きて、海が見えて、鳥の声が聞こえることがこの年齢になると大切だから」と、元気なうちはこの坂道の町で暮らすことを選ばれたのだ。

繰り返しになるけど、足腰を鍛えることだけは怠らずにいこう。


夫のやる気:
朝食を食べ終わった夫が急に、「よし、今から乃が美で絶対に食パンをゲットしてくる!」と叫んで、右の拳を突き出していた。そのやる気、他に回してもいいんじゃないかとやや思う。芦屋の乃が美に飛んで行ってしまった。さきほど「乃が美、3人目!」というテンションの高いラインがきた。







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by himarayasugi2 | 2017-03-25 10:54 | 本など | Comments(0)

25年前に読んでいたら。

25年前、結婚してすぐに夫の転勤に伴い北関東に引っ越し、2年を過ごした。その間に再就職して、都内まで片道2時間少々かけて通勤していた。1日の通勤時間が往復で4時間以上だったあの頃、1日=24時間があまりにも短かったことはよく覚えている。一番つらかったのは、仕事が終わってからだった。残業をしないで一目散に帰ったとしても、家に着くのは午後7時半である。それから着替えて、気力を振り絞ってなんとか夕飯を作っていた。精神的にも落ち着かない日々だった。少しでも残業したら、バスがないこともあり、帰宅が午後10時や11時になることもざらだった。そうなると、お手上げで、近所のコンビニでインスタント食品を買って晩御飯にしたこともあった。平日は、いつも晩御飯のことが気になっていた。また土日は、目が覚めるまで寝て、あとは掃除と洗濯で1日はつぶれる。今思い返しても、なかなかタフだったと思う。

よく推奨されていた「週末に1週間分の夕飯の下ごしらえをまとめてする」なんて時間はなかった。特に家庭的でもなく、家事が得意でもない私が、もしそれを真面目にやっていたら、休みが全くない感じだっただろう。

書店で土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』を手にして、出だしの部分を読み、25年前の忙しかったときにこの本に出会っていたらよかったのになとしみじみ思った。最初の1行を読んで涙でそうになった;

この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んで欲しいのです。(8頁)


本書は、いわゆる一汁一菜のレシピを公開したものではない。また一汁一菜というのを「お洒落な和食のスタイル」として取り上げているのでもない。この本の主旨は、下記に集約されていると思う;

一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います。(10頁)


土井さんは、時間がないときに無理して一汁三菜など用意する必要はないけれども、料理をすることの意味を忘れてはならないという。それは、食事というのは、ただ食べるだけでなく、買い物から、下ごしらえ、調理、食べる、片づけるという一連の行動が集まった行為だから、時間がないから毎回外食をする、出来合いのものを買うということが続くと、それは「人間は食べるために必然であった行動(働き)を、捨てることにな(る)」(38頁)のだ。この行為を最小の単位でも生活に根付かせるために、限られた時間内で全ての行動をきちんとやれるために、土井さんは、一汁一菜を提案しているのだと理解した。要は、食材を選んで料理をして、食べて、後片付けをするというのは、全て等しく大切な行動なのだ。

50頁からは、具体的な「一汁」の内容(アイディア)について触れている。決してレシピ集ではない。なのに、独特の語り口が読みやすく、すごーくやる気になる。土井さんが実際に日常で作られたお味噌汁の写真も沢山掲載されているのだけど、それらがみな、手でちぎったであろう豆腐に、キノコがどっさりはいった味噌汁だったり、またまた手でちぎったっぽいキャベツやら菜っ葉がどっさりの味噌汁だったりする。写真が、全く気取っていなくて、最近よく見られるSNS料理とは全く違うもの。すっぴんの食事の記録写真とでもいおうか。またそれが美味しそうなのだ。生卵を最後にお味噌汁に落としてみよう、ごま油で手で大胆にちぎったお豆腐を炒めて、キノコを加えてお味噌汁にしてしまおう、とか、やってみたいアイディア満載だった。まだ75頁までしか読んでいないけど、面白い。

本書の前半部分は食事を改めて見直そうと考えさせられる内容だった。お料理本というのではなくて、なんだろ、料理を通して生き方語る、みたいな感じ。初めて土井さんを知ったのは、2003年からしばらく放送されていた『食べて元気!ほらね』という番組で、宮根(このころの宮根は、まだ感じがよかったが、今は……)と一緒に料理を作るコーナーだった。あ、土井勝の息子やわー、面白いやん、みたいな感じでいつも楽しみにみていた。あの話し方が好きである。

よい本だと思った。長距離通勤時代の疲れ果てていた私が読んでいたら、きっと元気になっていたと思う。








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by himarayasugi2 | 2017-02-19 09:06 | 本など | Comments(2)

「コンビニ人間」を読んだ。

芥川賞受賞作が掲載されている『文藝春秋』を手にして、「コンビニ人間」を一気読みした。作者は、実際に今も週三でコンビニでバイトしている村田沙耶香さん。文章の上手い人がコンビニで働いていると、裏側をこんなに面白く描けるのか。普段何気なく立ち寄るコンビニが、このようにシステマティックで、マニュアルで制御された世界だとは知らなかった。

芥川賞受賞作が掲載されている『文藝春秋』は、必ず選考委員による選評も一緒にあって、作品を読み終わってから答え合わせのような気分で、選評を読むのも楽しみの一つだ。その中で小川洋子が、「社会的異物である主人公を、人工的に正常化したコンビニの箱の中に立たせたとき、外の世界にいる人々の怪しさが生々しく見えてくる」と書いていた。コンビニは、ものすごいマニュアルに支えられて「人工的に正常化」されているのだ。

現在、私がコンビニを使うときは、基本、どこでも同じ料金であるサービスを利用するとき、例えば、宅急便とか、なにかの料金の支払いとかがメインで、そのほかだと買い忘れに気がついて一番近くて、営業している店がコンビニだった、とか、あと、あまりないけど、帰宅時、深夜の駅で翌日の朝食のヨーグルトや牛乳を切らしていることに気づき、駅近のコンビニに駆けこむときとかとかである。たまに、すごく気になるコンビニスイーツを買うこともあった、あった。あら、意外と利用している。

キンロー時代は、通勤時、駅からオフィスまでの道のりにあるコンビニでペットボトルのお茶を必ず買っていた。ここで思い出したのは、私はあのとき、月曜から金曜まで、朝いつも同じ時間に同じコンビニで、同じお茶を買っていたことだ。当時の私は、コンビニで働く小説の主人公にとって、「朝という時間」を運ぶ存在のひとつであり、コンビニという「いつも回転し続けるゆるぎのない正常な世界」を形成するひとつのピースだったのだ。

毎朝コンビニに立ち寄っていたキンロー時代、コンビニでいつも同じお茶を買っていたのは、なぜだろう。めったに買う物が変わることはなかった。あれこれ選ぶ場所でもないと多分思っていて、できるだけ滞在時間を短くしようと無意識に行動していたかもしれない。マラソン選手が、レース中に給水するときにできるだけ時間のロスなくさっとドリンク(もしくは水を含めたスポンジ)をつかみ取り進んでいくのとやや重なる。違いは、お金を支払うことだけで。

コンビニは、接客を含めてマニュアルの存在が大きい。ここに立ち寄る人は、こういうものを探しているときが多いでしょ、と言わんばかりの絶妙な品揃え(電池、インスタント食品、旅行用の基礎化粧セット、暇つぶし用の雑誌、探すと見つからなくなる文房具などなど)は、広く浅く、深みもなく、面白味もなく、標準化されている。定期的にデータを見直して品揃えを変えているのだと思う。でも、コンビニのスタッフは、生身の人間で、いくらマニュアル通りにしか話さないにしても、やっぱり、そこは個性がでてくる。

新婚で北関東に住んでいたとき、部屋から徒歩1分のところにあったコンビニに、絶句するくらい「トロい」店員がいて、名前をヤマダ(仮名)さんと言った。ヤマダさんは、レジがあるのに計算間違いをし、レジが表示したのと異なる金額を客に告げ、おつりを間違い、品物を袋詰めするのが、絶望的に遅く、宅急便を持っていっても、あぶなっかしい応対で、いつもハラハラドキドキさせられていた。しまいには、私たち夫婦は、要領を得ない店員をさす形容詞として「ヤマダ」を使うようになったのだ。今でも「ヤマダ」はそういう店員の代名詞となっている(*1)。いかにヤマダさんが強烈なキャラだったかおわかりかと思う。

ヤマダさんの存在は、あのコンビニの「正常感」を常に乱していて、一種のノイズみたいだった。今のコンビニで、あんな人はレジにいないと思う。採用されないかと。

小説自体は、あっという間に読めて、だれないけど、白羽さんを家に連れてゆくという後半の展開は、ちょっとご都合主義かなと思った。島田雅彦の選評でも、同じことが指摘されていた。主人公が、36歳で独身、彼氏なし、バイト生活ということで周囲から異物扱いされるけど、私はそこまで主人公が異物とは思えなかった。異物か否かを決めるのに、絶対的な測りはなく、すべてが相対的なものだと思う。彼女が変わっているとすれば、あまり感情がなさそうなところだけで、20年の引きこもりとかと比べれば、家賃も自分で払い、誰にも迷惑をかけてないから、いいやんと思う。白羽のほうが、よっぽど異物だし、あれは、ちょっとクズすぎるかも。

*1)例えば、「今の人、ちょっとヤマダさんだったよね」みたいに思わず使ってしまう。 






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by himarayasugi2 | 2016-09-08 08:59 | 本など | Comments(0)

『魂の退社』を読んだ。その2

稲垣さんとは同年代ということもあって、賢いクラスメートのお話を聴いているような感じで本の内容がすっと頭に入ってくる。彼女が、派手な暮らしをしていたとき、ブティックに行って、担当店員に洋服やら小物やらを選んでもらって、豪快に買い上げたり(だから店員は、稲垣さんが店に現れるとテンションが上がっていたそう)、雑誌に出ていたふぐの白子鍋を食べに行こうと、その場で盛り上がったら夜中にタクシー飛ばして食べに行き、お気に入りの焼き鳥屋では全メニュー制覇し、高級ワインを開け、スポーツクラブにも行き・・・といった具合だったそう。私も、バブルのときは、給料が入れば決まった店に行って、担当の店員さんに選んでもらった服を買ったりしていたもん。そういう行為に酔っていたところがあったと思う。必要もないのに、無理して買った服もあったし。そうやって服を買うもんだって思っていたところもあった。

自分で稼いだお金で何をやっても自由ではあるが、稲垣さんはこういう「おいしい」ことから逃げ出したくなる。その理由をこう説明している;

[引用ここから]なぜなら、大きい幸せは小さな幸せを見えなくするからだ。知らず知らずのうちに、大きい幸せじゃなければ幸せを感じられない身体になってしまう(13頁)。[引用終わり]

昔、観た映画、『アメリ』で主人公のアメリが好きなこととして、乾燥豆(ひよこ豆かな?)の入った袋に手をいれて、その感触を楽しむとか、クレームブリュレの表面のパリパリのカラメルをぱりっと割る音が好きだとあった。その後もアメリは、ちょっとした小さな親切をこっそりと行い、ひっそりと喜んでいたと思う。その場面を観たときに、幸せというものは、日常にいくらでも存在していて、それに気づくかどうかなんじゃないかなって思ったのだ。「幸せ」は、大きい、小さい、高い、安い、豪華、簡素、で測るものでなく、感じるか、感じないかだけのものである。でも、大きくて、キラキラした見栄えのものだけを追っていたら、きっと稲垣さんの言うように、幸せに対するアンテナの感度が落ちてゆくのだろう。

現役の間は、こういう大きな幸せを追うことができても、定年退職したら、お金がないからそういうことがやりにくくなる。つまり、我慢することになるのだ、その人が現役時代に考えていた幸せを。それって、すごく不幸だと思う。お金がないから、幸せじゃないんだって思いながら人生後半の日々を過ごすのって、つまらない。そうではなくて、幸せや、人生の喜びに対する感度を研ぎ澄ませていけば、お金があろうが、なかろうが、関係なくその人は幸せでいられるんじゃないか、そのために稲垣さんは、まずは「おいしい」ことから距離を置くことを決意されたんだと思う。

その後、稲垣さんは地方に異動になり、お金を使わなくても楽しい生活を知ってゆく。震災の後にはついにほぼ電気を使わない生活に突入する。このあたり、絶対マネできないなーと思いつつも、かなり読ませる。稲垣さんは帰宅しても電気をつけずに、暗闇で目が慣れるまでじっと待つらしい。でも慣れてきたら、うっすら見えはじめ、着替えも、トイレもお風呂も、なんでもできるし、テレビをつけないから、暗闇と静寂が出現するとある。「つまり何かをなくすと、そこには何もなくなるんじゃなくて、別の可能性が立ち現れる」(104頁)のだ。テレビも電気も「ない」のではなく、暗闇と静寂が「ある」ということ。そういう風に、自然に状況を受容できるようになるには、私はまだまだ修行が足りないけれども、そういう考え方は好き。


晴れた日の早朝に、ケンと夫と美鈴池に散歩したとき、すごくハッピーだった。八ヶ岳がよく見えて、ケンが楽しそうで、人間も元気で、いいぞ、いいぞって思ったのだった。


実は、稲垣さんにはまってしまって、この本を読んだ翌日に、もう一冊、稲垣さんの本を買ってしまった。こういうこと、たまにあるのだ。大昔は、妹尾河童にはまって、文庫を全部そろえたことがあったし、椎名誠も結構揃えたと思う。文献、ほとんど進んでいませんが。

久しぶりの雨。かなり降っている。ケンの散歩に出るタイミングが難しい。






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by himarayasugi2 | 2016-07-26 08:23 | 本など | Comments(2)

『魂の退社』を読んだ。

稲垣えみ子さんの『魂の退社』を読んだ。あっという間に読めるが、内容は濃い。本当は読みながら線を引きたかったけど、夫も読むだろうから、代わりに付箋を貼った。沢山貼りすぎて本がフリフリになる。わかる、わかるとうなずきながら読む箇所もあれば、大笑いする箇所もあって、感想を一度にまとめるのは難しい。なので、付箋を貼った箇所の中からいくつか厳選して、自分に引き寄せて思ったことを記録する。

本の構成は、大きく分けて、退社する前と、退社後の生活の二部に分けられる。なぜ、稲垣さんが退社を選択したのか、それまでの経緯と、退社後、会社という守りがなくなってから彼女が社会を肌で感じた感想が書かれている。大笑いしたのが、会社を辞めて、今まで会社から貸与を受けていたスマホとパソコンを返却し、自分のスマホとパソコンを買うくだりである。稲垣さんは、これまでご自身でケータイを購入したことはなかった。つまり、ケータイショップに行ったことが初めてだったのだ。ケータイビジネスの「わけわからん感」が、常に私が感じていることと全く同じで、描写の的確さと赤裸々さに大笑いしてしまった(詳細は、「ケータイを買って3日間寝込む」「詐欺化するビジネス」「IT自立にて考察」の項(150頁~)を参照されたし)。

稲垣さんは、生まれて初めてケータイショップに1人で行き、なにもわからないこともきちんと店員に話し、「通話も通信も最低限のことしかしない(できない)からいちばん安いのでイイです」と主張するも、店員さんは、素人には絶対にわかりようもないようなプランを沢山出してきて、こっちが得だとかなんとかいいつつ、すぐに契約させてくれない。ああだ、こうだと、オプションてんこ盛りとなり、気付けば月額8000円以上の支払い契約となったのだ。このあたりのやりとりは、153-157頁に詳しくて、面白い。読みながら、「私も、絶対にわからんわー、稲垣さんみたいに頭脳明晰な人でもこうやから、私やったらもっとわけわからんままに、すごい月額になってたんとちゃうか」と心底思った。

店員が、こっちのほうがお得だからとか、これは絶対に必要だからとか、っていうのは、おそらくノルマのためなのかなと思う。圧倒的に不利な戦いである。ルールを完全に熟知している人と、丸腰の人が同じ土俵で戦って勝てるわけがない。先方は、各種プランを自由自在に組み合わせては、知らない間に、ごっそり契約金額に上乗せしてゆくのだ。でも、稲垣さんは、1人で行くだけエライと思う。私は、ガラケーのときでもスマホのときでも夫と一緒にカウンターに行っているし、しかも、スマホについては、格安スマホなので、稲垣さんが経験したような激烈なセールスはなかったのだ(それでも、うわーってなったもの、店の人の言っていることがわからなくて)。

スマホ購入後に、稲垣さんは、お父様について書かれていて、ここを少し引用する。

[引用ここから]我が父のことを思います。父はとても向上心が強いというか、歳をとっても時代についていきたいタイプで最近はスマホに興味津々なのです。(中略)その父がこういうお店に行ったらどうなっちゃうんだろうかと思うと泣けてくる。プライドの高い人だから、理解できないことがあっても理解したふりをするでしょう。いや私とて開き直って「理解できない」と繰り返したつもりですが、それでもあまりの情報格差に疲れ果ててしまい、結局は理解した「ふり」をしたのだ。(157-158)[引用終わり]


ここを読んで、私は自分の父親のことがすぐに頭に浮かんだ。父はガラケーのままだと思うけど、パソコンにしても、ネット回線にしても、ケーブルテレビにしても、この「理解したふり」をしているんだなと思うのだ。ほんとは、居心地の悪さをどこかで感じているだろう。だって、娘の私ですら、いつのまにこんなに世の中進んでおるんじゃって疲れているし。それに、稲垣さんが続けて書かれている「マイナンバー」についても、同じ意見である。結局、作ったけど、なにがいいんだか、さっぱりわかんない。大事に引き出しにしまっている。これ、いつ、使うんだろう。なにに得するのか、ほんとにわかってない(でも持っている、なんだこれ)。

この本についての感想は、続く予定。

ここで、私のスマホ生活25日目の様子など:
私のスマホは、格安スマホで、夫と私の2台合わせても、稲垣さんの1台分の月額料金よりもかなり安い。でも、ガラケーよりは高くなったのに、あまり使っていないのが、悔しいところ。火曜に充電して、次に充電したのが日曜というので、いかに使っていないかがわかるというもの。操作自体は、すぐ慣れたけど、スマホは、普通の昭和のおばさんには使いこなせない。なにが出来るのかも実はよくわかっていない。家にいるときは、パソコンで調べものをするし。スマホにしてよかったと思える瞬間がまだない。ちなみにケータイを持ってて便利やなと思ったのは、八ヶ岳で、東京から来る妹と初めて行く店でランチの待ち合わせが出来たとき、くらいか。ささやかすぎる。






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by himarayasugi2 | 2016-07-25 08:38 | 本など | Comments(0)

前ほど雑誌を読まなくなった。

気がつけば、雑誌を買うことがほとんどなくなっていた。

小学校低学年のときは毎月『小学X年生』を買ってもらい、高学年から中学2-3年くらいまでは、『りぼん』か『なかよし』をお小遣いで買っていた。高校からは、『MC Sister』、『Olieve』、『an・an』あるいは『nonno』のどれかをなんとなく買っていたと思う。高3から大学2-3回生までは『an・an』を月に2回くらい買って、『JJ』を友達に見せてもらって、『marie claire』(リニューアル前のもの)を祖母からお古で時々もらっていた。OLになってからは、『marie claire』と、あと『FRAU』も特集によっては買っていたと思う。映画に夢中になっていた時期は、『Screen』と『Roadshow』を毎号買っていた。

結婚してから少しインテリア雑誌を読みはじめ、東京で働くようになってからは、映画雑誌の『Premiere』英語版を新宿の洋書屋に毎号取り寄せてもらっていた。また、『Newsweek』の英語版と日本語版を定期購読していた。当時、私の周囲にこの三誌を定期購読している人は多かったと記憶している。横浜に引っ越したあたりで解約したと思う。結婚直後からつい数年前まで、英日のバイリンガルのミニコミ誌も年間購読していた。これも、読まなくなったから解約した。当時は、国際協力とか、女性のグローバルな活躍とか、そういう事例に関心があって、講読していたような気がする。年に1冊発行とあとは、A4のプリントが2回くらい届くのだが、ほとんど広告がないこともあり、購読料は少し高かった。たまに、旧『kunel』を買い、特集が気に入ったときだけ『pen』や『BRUTUS』、『CASA BRUTUS』を買う、みたいな感じだった(『CASA』は、創刊号を持っている)。最近は、この四誌もほとんど立ち読みで済ませる感じ。『クロワッサン』も年に1冊買うかどうかになった。『アルネ』はわりと買っていたほうかもしれない。

こうなった理由は、明確だ。インターネットを利用するようになったから。映画の情報も、インテリアやファッション、美容と健康の情報も、ネットが一番早いし、量は多い。とりあえず、今はどういう服がいいかみたいな一般的な情報は、ネットからで、私には十分である。インテリアや雑貨などは、ネットの方が幅広くいろいろなテイストのものを一度に見ることが出来るし。化粧品やサプリは、雑誌は、タイアップが多いから、ネットの口コミの方が信用できる。それでも雑誌を買うときは、付録狙いか、特集がどうしても読みたいか、写真がすごくきれいから欲しい、ネットでは絶対に読めない記事がある、みたいな理由である(以前、『アルネ』が村上春樹の家を取材していて、これは買った)。昔の『marie claire』の写真は、すごく素敵で、モノクロ写真を額縁にいれて飾ったこともあった。

雑誌がネットに完全にとって代わられることはないと思っている。昔、誰かが書いていて、うろ覚えだけど「価値のあるものが、活字として印刷される(*紙媒体で残る、という意味だと思う)」あるいは「長く残る」とあって、私はそれを正しいと思っているから。昔みたいに、一つの雑誌を毎号講読する読者は減ったと思う。市場が小さくなるのは避けられなくても、ターゲットが明確で、小さな領域を深く掘り下げた雑誌だったら続くと思うけど。そういうマニアな雑誌は、広告が取りにくいのだろうな。ビジネスとして成立しないのか。

で、高山なおみさんの神戸の引っ越しの記事がある『暮らしの手帖』は、買いたいと思っている。あと、ネットで見たけど、懐かしの「小林麻美」が取材を受けている『kunel』を、立ち読みしてみたいかも。面白かったら買う。

雑誌は、永久保存版と決めたもの以外は、まるごと長くとっておくことはほとんどない。気に入った写真、記事だけを切り取ってスクラップ帳に貼って、あとは捨てる。

ウェブマガジンやキュレーションサイトも見る。興味のある項目だけクリックすればいいから合理的だけど、紙の雑誌をめくるワクワク感みたいなのは、皆無。雑誌とは別物だと思う。 
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by himarayasugi2 | 2016-07-21 09:01 | 本など | Comments(0)